どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は上山中山地区にありますお城跡、
中山城の歴史と史跡をご紹介します。
中山城の歴史と史跡をご紹介!🏯
中山城
南北朝動乱の時代から中山地区は
最上郡(現在の村山郡)と置賜郡
両方に囲まれた要地であったため
最上郡を支配する最上氏と
置賜郡を支配する伊達氏との間で
領土を巡る抗争が起き、
中山城が築城される以前より
前森山に伊達氏によって構築された
自然の城塞があったとされております。
中山城までは中山集落から
国道13号線上山バイパスから
西に向かい旧中山小学校跡地から
散策する事が可能です。
中山城の歴史は
永禄・元亀年間(1558~73)
米沢城主伊達輝宗の対最前線基地として
中山の地を重要視し、
最上勢から伊達領土を防塞するため
家臣中山弥太郎に天守山(344m)に
中山城の築城を命じました。
その後1587年頃から
小国盛俊が城主となったとされています。
中山城の本丸までは少し急斜面ですが
よく道が整備されており
散策は比較的に簡単に行えるようでした。
中山城天守台石垣跡
1590年、伊達氏の岩出山の転封にともない
家臣蒲生郷可が城主となり
1万3000石を領しましたが
1598年、国替えによって上杉景勝が
会津に入封すると横田旨俊が城主となりました
天守山の頂上には中山城の石垣が残されており
当時の面影を伺うことが出来ます。
広河原古戦場跡
掛入石
1600年、関ヶ原の合戦のおり
上杉軍は最上領へと侵攻を進め
破竹の勢いで次々と城を落城させました。
中山城では大将木村親盛・清水康徳
そして城主横田旨俊が集まり
上山城へと侵攻を進めますが
伏兵を潜ませておりました
最上氏家臣草刈志摩による奇襲により
木村親盛が討ち取られてしまい上杉軍は撤退。
この戦いを物見山の合戦と呼ばれております。
最上軍は中山地区にあります
広河原古戦場まで追撃を行いましたが
掛入石に潜んだ上杉軍の伏兵に手を焼き
上杉方の鉄砲隊による待ち伏せに遭い
草刈志摩は狙撃され落命。
最上軍も上山城へと撤退を余儀なくされました
写真の掛入石は明治初年までは
ふた抱えもある桜が枝をのばし、
芭蕉の句碑が立つ花の名所でありましたが
奥羽本線敷設工事の際に支障があったため
ダイナマイトで割削され今の姿になりました
中山峠の首塚
龍雲寺
合戦の後、多くの兵士が戦死。
その霊を弔うために中山峠の境の首塚に葬り
また1601年、横田旨俊は戦死した兵の
供養のため龍雲寺を開基し建立しました。
御番所跡
御役陣屋跡(旧中山小学校)
1601年、関ヶ原の合戦後
上杉家は会津から
米沢へと転封し米沢藩を立藩。
最上領土と接しておりました中山地区には
御番所と称された関所が設けられ
宿場町を形成すると
米沢街道を通る荷物の往来や
出羽三山へと参拝に訪れる
人々の往来によって大変栄えます
中山城は合戦の後、
廃城となったと考えられており
お城の麓に御役陣屋(代官所)が設置され
明治3年に廃止されるまで
中山地区の統治を行いました。
以上、
中山城の歴史と史跡のご紹介でした。
上山市の城郭跡
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