どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は中世の山城跡、
高楯城の歴史と史跡についてご紹介します。
高楯城の歴史と史跡のご紹介!🏯
高楯城(亀ヶ岡城)
標高354mの虚空蔵山に築城された高楯城。
別名亀ヶ岡城と呼ばれるその歴史は
最上氏始祖斯波兼頼の子、
最上直家の次男頼直が天童に封じられ
その子満長が応永年間初期(1403年頃)
上山に分封されて亀ヶ岡山(虚空蔵山)に
高楯城を築城し上山氏または武藤氏と称し
代々居城しました。
高楯城は置賜地方を領した伊達氏と
領域を接する境目の城であったため
攻防が幾度も繰り返し行われ、
1508年、高楯城は攻め落とされ
城主上山義房は城から逃亡を図り、
伊達氏家臣小梁川親朝が城へと入城します。
1515年、再び伊達稙宗は最上領へ侵攻。
山形城主最上義定は天童氏や村山の国人衆と
抵抗を試みたものの前線基地でありました
長谷堂城が攻め落とされてしまうと
稙宗は義定に対し妹を娶らせ和議を結び
最上氏を支配下へと収める事に成功しました。
虚空蔵山はハイキングコースとして
整備されているので
急斜面はそこそこありますが
お気軽に散策にすることが可能です。
東空堀跡
1520年、最上義定は
跡継ぎが無いまま死去すると
稙宗は最上氏に養子を送り
完全に勢力化に抑え込もうと企てましたが
伊達氏に対抗するべく
上山義房と天童氏と村山の国人衆は
反乱を起こしましたが
稙宗は上山に再び挙兵しこれを撃退、
義房はこの戦いで討死します。
しかし1535年、
義房の嫡子上山義忠が小梁川を降し
高楯城を伊達氏の手から城を奪還。
新たに天神森に上山城を築城し居城しました。
その後、居城を上山城に移したため、
詳細な記録が残されておりませんが
平時の際、高楯城では
上山地方を統治するのが不便なため
新たに上山城を築城し
有事の際に籠城を想定して
保存が行われていたのではないかと
考えられます。
高楯城主郭跡(虚空蔵尊)
そして再び歴史の表舞台に現れたのは
1600年、東北の関ヶ原
慶長出羽合戦では上杉景勝との対立から
最上義光の配下で上山城主里見民部によって
改修・整備され戦いに備えたとされ
最上勢の城が次々と落城するなか
上山勢は奮戦し上杉勢に対し
見事勝利を収めます
その後の記録は残されておらず
詳細不明な点が多いのですが
慶長出羽合戦後、もしくは
1622年、最上家の改易によって
廃却されました
虚空蔵山の頂上まで登りますと
主郭跡があったとされる虚空蔵尊に到着。
寺院裏手にあります弁慶池は
夏になってもめったに渇れる事がなく
虚空蔵尊をこの地に祀った
武蔵坊という修験者にちなみ
名付けられたと伝えられております
頂上からは上山市街を望め
また寺院横に梵鐘が建立されており
ハイキングを楽しんだ後に
こちらで鐘を鳴らす登山者が多く
見受けられました。
上山城と比べれば地味なお城ですが
戦闘を意識した戦国時代の歴史が学べる
貴重な史跡だと思いますので
ぜひ高楯城に訪れてみてください
以上
高楯城の歴史と史跡のご紹介でした。
上山市の城郭跡
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