KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

中山町の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

山形県東村山郡中山町の

歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。

中世にこの地を統治した中山氏や

山形の秋の名物、芋煮の発祥の歴史等

ご紹介出来ればと思います。

 

 

 

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中山町の歴史と史跡をご紹介!

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長崎駅

 

中山町の歴史ですが

1889年、長崎村・達磨寺村・向新田村が

合併し最上村が発足し後に長崎町になります。

岡村・土橋村・金沢村・小塩村が

合併し豊田村が発足すると

1954年、昭和の市町村合併により

長崎町と豊田村が合併し中山町となりました。

 

町名の由来は

中世から近世初頭にかけて

当地一帯の領主であった中山氏が

地名の由来となります。

 

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岩谷十六夜観音堂

 

原始古代

先土器時代のものとして黒曜石の彫刻刀が

大字土橋の滝地区から出土しており

縄文遺跡には大字小塩の塩ノ原、

柳沢の御獄神社、岡の影浦遺跡などの8ヶ所、

弥生遺跡は大字金沢の庚申山遺跡があり

最上川沿いの長崎、三軒屋地区などの

各地から出土しております。

 

平安時代の記録によりますと

出羽国最上郡、荘園時代には

山辺荘に属していたと記録に残されており

こちらの岩谷十六夜観音堂は

飛鳥時代に蘇我馬子の重臣

右近衛秀豊僧正が開基し、

その後約200年を経て

837年、慈覚大師が

再建したものと伝えられる。

 

江戸時代中期以降、

川西三十三番の納札所として

オナカマの総本山として繁盛し、

本堂に奉納されている

貴重な道具類や絵馬などの資料は現在

町指定民族文化財として保存されています

 

村山地方でイタコさんの事をオナカマと呼び

盲目の女性が多くこの地で修行され

口寄せを行った歴史がありました。

 

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長崎楯(中山城)

 

中世の時代

承久の乱で後鳥羽上皇方につき、

寒河江荘に逃れた大江親広に従って

京都から落ち延びてきた家臣に

中山忠義がいる。

忠’義は中山氏の始祖と伝えられ

始めは大江町伏熊に居住し大江氏の重臣として

最上川右岸を統治しておりました。

7代継信のときに沼尻郷とよばれていた

長崎地区の湿原地帯の開拓を行い

1384年、長崎楯をつくり

外濠をめぐらし城下町を形成、

以後中山氏によって統治される事となります。

 

長崎楯跡にありますこちらの大イチョウは

中山氏居城の本丸内、楯の庭前にあったものと

伝えられています。

 

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八坂神社

 

中山町にあります八坂神社は

1469年、この地に大干魃、大飢饉、

疫病が蔓延し人々は疲弊しておりました。

長崎楯主中山宗朝はこれを憂い

京都祇園牛頭天王を勧請せんと発願、

1472年、宗朝の子、直正と

家臣鳥鬼沼兵部貞治を使わして

館の鬼門に勧請、社地を構え 

小社を建立して父の心願を願就いたし

深く崇敬し祈願を重ねたところ

天災はことごとく除かれたため

改めて社宮を造営したと伝えられています

 

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中山氏墓所(円同寺)

 

戦国時代、

南北朝の動乱による漆川の戦いにより

大江氏は最上勢に敗れ所領は安堵されるものの

両者緊張状態が続く事となります。

1503年、最上氏が治める山野辺城主

山野辺氏と中山氏は縁戚関係が結ばれる

記録が残されており両軍割拠するなか

大江領・最上領の間に挟まれた中山の地は

戦略上重要拠点だったと考えられます

 

長崎楯の隣にあります同円寺は

1444年に開山された中山氏の菩提寺で

氏に関連する史跡が残されておりました。

 

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 玄蕃壇(中山朝正墓所跡)

 

その後最上氏の力が次第に大江氏を圧倒。

1584年、最上義光が大江氏を滅ぼすと

八代中山朝政は最上氏の配下となります。

朝政は50年間地域開発と住民統治を果たし、

領民の尊崇厚く玄蕃さまと慕われた人物で

その後、義光の命を受け庄内地方を治める

大宝寺氏を攻め立てる等の活躍や

十五里ヶ原の戦いや慶長出羽合戦にも従軍、

江戸時代、山形藩の立藩によって

中山氏の地位も安定したかにみえましたが

1622年、最上氏の改易によって

中山氏は阿倍正次の預かりの身となり

長崎楯は廃城となりました。

 

こちらの玄蕃壇は

中山町指定文化財登録されており

中山朝政が68歳で死去された際

埋葬された墓所跡だった場所で

その後、同円寺に墓所が移転されました。

 

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上町の市神石

 

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光秀院の大日如来

 

近世の時代

長崎地区は出羽三山参詣の宿場町として

六斎市が開かれるほど賑わい、

現在中山町役場がある場所は

市場が開かれた事から

市神石が祀られています。

 

また光秀院にある大日如来は

湯殿山行者善竜海の

発願により創建されといわれ

三山に向かう参拝者が

多く参拝に訪れた歴史を持ち、

市神石と共に町の文化財に指定されています。

 

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鍋掛松

 

1694年、最上川の開削工事によって

最上川舟運が長崎から荒砥まで通じます。

それまで最上川舟運の終着点が長崎港で

米沢方面への船荷の積み替えが行われた

要地でした

 

内陸からは米、紅花などを運び、

一方京都からの帰り荷には衣料、蚊帳や

雛人形など上方文化を積み帰ってきました。

 

船頭や水夫たちは船着場で風待ちの間、

京都から運ばれた棒だらと地元の里芋を材料に

河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べたとされ

山形名物芋煮会の始まりだとされます。

  

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柏倉家住宅

 

中山町は江戸時代中期以降、

地主制の発達が最も著しい地域の一つでした。

中でも柏倉九左衛門家は

江戸中期山形城堀田氏の下で

6700石の大庄屋を勤めます

 

近隣に十数作の有力な分家があり

一族一体となって地方行政をはじめ

公共事業、農政、教育等に力を注ぎました。

 

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岡観音堂

 

現在中山町では

水稲や果樹、野菜、畜産等が営まれ

特にプラム栽培はは東北一の生産量を誇ります。

山形県に観光にお越しの際は

中山町にぜひ訪れてみてください

 

以上、中山町の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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東村山地方の歴史と史跡

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