どーもKABUOです。
山形県北村山郡大石田町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
前回は原始古代から中世戦国時代の
歴史をご紹介しました
前回の記事はこちらです
今回は近世江戸時代から近現代までを中心に
最上川舟運で栄えた歴史や
松尾芭蕉、斎藤茂吉の史跡等をご紹介します。
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大石田町の歴史と史跡をご紹介!(近世~近現代編)🛶
浄願寺
近世の時代、
関ヶ原の合戦後、最上義光は山形藩を
立藩しましたが義光の死後、
家臣団による内紛が後を絶たず
1622年、最上家は改役される事となると
鳥居忠政が山形藩に入部。
現在の大石田中心街を山形藩鳥居氏領、
最上川をはさみ横川・田沢地区を
新庄藩戸沢氏領へと編入されました。
これは大石田河岸の利益を目論み
なかば強引に鳥居氏が戸沢氏対し
詰め寄ったことから
谷地郷2万石と新庄・山形藩領地
大石田・尾花沢2万石の替地が行われます
その後横川・田沢地区は新庄藩によって
比較的に安定的に統治される事となりましたが
鳥居氏はその後改易されると、
大石田は幕府領や他藩の飛び地領が入り交じる
複雑な統治体系によって
統治される事となりました。
こちらの浄願寺の山門は
尾花沢市にあります延沢城の裏門を
移築したと伝えられており
町の指定文化財に登録されています。
大石田河岸跡
最上義光によって最上川三難所、
碁点・三ヶ瀬・隼の開削工事が行われると
最上川舟運の最大集積場として大蔵村清水から
大石田へと移り変わり発展します
江戸時代には北前船から上方の品が運びこまれ
また幕府の年貢米や山形の特産品紅花や青苧が
大石田河岸に集積され京都・大阪まで運ばれ
大いに繁栄しましたが
明治時代を迎えると蒸気機関車の発達により
最上川舟運の歴史は幕を閉じました。
大石田中心街を流れる最上川沿いには
江戸時代に使用された
幕府の船役所跡が残されており
当時の栄華の面影が残されています
大石田観音
最上三十三観音29番札所である
大石田観音。
江戸時代には大石田惣町で祭礼を行い、
毎年7月17日から20日まで開催され
練物・押物・山車が町を練り歩き
大盛り上がりを見せました。
大石田町には大石田観音の他に
深堀観音・川前観音と
最上三十三観音の巡礼地あり
毎年多くの参拝客が訪れています
高野一栄宅跡
芭蕉真蹟歌仙の碑
奥の細道で有名な俳人松尾芭蕉は
1689年、弟子の曾良と共に
山寺立石寺から大石田に向かい
俳人高野一栄の邸宅で宿泊。
地元の俳人を集め俳諧を行い交遊を深めたと
記録に残されています。
一栄宅跡があります板垣一雄氏宅庭には
奥の細道紀行300年を記念して
1989年、芭蕉真蹟歌仙
「さみだれを」の碑が立てられました。
向川寺
こちらの向川寺は1377年に
開創されたとても古い寺院なのですが
松尾芭蕉が大石田に滞在中、
高野一栄を誘いこちらで参詣した
記録がのこされております。
芭蕉の他にも正岡子規や斎藤茂吉も訪れ、
境内にあります大イチョウは
町天然記念物に指定されています。
大石田町立民俗資料館
斎藤茂吉の墓所
近現代
1946年、歌人斎藤茂吉は大石田に疎開し
豪農二藤部兵右衛門家の離れを
聴禽書屋(ちょうきんしょおく)と名付け
約1年5ヶ月も滞在しました。
この時期病を患い、敗戦の傷心とも重なり
身も心も傷心しておりましたが
四季折々の最上川の優大な景観に心を癒され
本格的な短歌を創作するまで身体を回復。
その後、最上川を題材にした歌が多く創作され
晩年を代表する多くの作品が産み出されました
乗船寺には分骨された茂吉の
お墓が残されており、
また大石田町立民俗資料館には
斎藤茂吉に纏わる資料が展示されている他に
聴禽書屋も資料館と接続し
公開されております。
乗船寺涅槃像
現在大石田町では古い町並みを行かした
観光産業やお蕎麦の生産が盛んに行われ
お蕎麦屋さんが並ぶ大石田そば街道には
県外からも多く観光客が訪れております。
山形県に観光にお越しの際は
ぜひ大石田町に立ち寄ってみてください。
以上
大石田町の歴史と史跡のご紹介でした。
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