どーもKABUOです。
山形県北村山郡大石田町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
大石田町の原始古代から近現代にかけて
歴史と史跡を時代順にご紹介します
今回は原始時代の角二山遺跡や
古代の水駅、野後駅、
中世この地を統治しておりました
大田左仲の歴史や史跡をご紹介します
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大石田町の歴史と史跡をご紹介!(原始~中世編)🛶
大石田駅
大石田町の歴史ですが
1889年、町村制施政によって
大石田村・亀井田村・大高根村が発足、
その後1897年、町制施政によって
大石田村が大石田町になります
1955年、昭和の市町村大合併によって
亀井田村・大高根村が大石田町に編入され
新大石田町が発足され現在に至ります。
大石田小学校
町の地名の由来ですが
昔、村の中心部にある水田の中に、
直径三メートルもある大きな石があり、
その傍らには泉が湧き出していました。
村の人たちは、この石を大切にし
その泉の水を飲めば、どんな悪病も
たちまち治るといって敬ってきました。
これがそのまま大石田の地名になりました。
(大石田駅案内板引用)
また川の流れが変わり、
石ころが多い川原を開拓したことに
地名が由来したとも考えられています。
角二山遺跡
原始の時代
大石田町からは先土器時代から
弥生時代までの遺跡は約70ヶ所を越え、
写真の角二山遺跡から出土した
細石刃・石核の舟底形石器、出土石器の
組成などから貴重な先土器末期の遺跡です。
現在竪穴式住居の2棟復元されており
県指定文化財に登録されています。
野後駅(駒籠小学校と駒籠地区)
古代の時代
平安時代にまとめられた延喜式によると
多賀城と秋田城を結ぶ街道沿いに
野後駅(のじり)という馬や舟を停泊する
宿駅があったと記録されています。
その場所には色々憶測を呼びましたが
現在発掘調査が進み大石田町駒籠付近に
野後駅があった可能性が極めて高く
古代より最上川を利用し舟を使用した
交通手段を取っておりました。
井出楯跡(八幡神社)
中世の時代
この地は大田氏によって統治されており
最上氏に属して2000石を領したと
伝えられております。
1510年、大田左仲によって井出楯が築城、
それと共に菩提寺である普門寺や浄願寺、
井出八幡神社が開かれます。
1524年、大田左仲が亡くなると子の
大田外記がその後を継ぎましたが
とても評判が悪い人物で
1585年、最上義光によって
攻め滅ぼされました。
また井出楯の他に
山形城主2代目最上義直の孫、
天童頼直の5男である頼種が
鷹巣に入部し築城したと伝わる鷹巣館や
来迎寺楯・塩ノ沢楯・川前楯・次年子楯と
楯跡が数多く残されております
圓重寺
1584年、谷地城主白鳥十郎長久は
最上義光の策略により山形城で誘殺され
その後、谷地城は攻略され落城しました
長久の家臣平林玄馬が主君の英霊を
守護せんとし発心し了円と改名、
圓重寺を開基した事から始まり、
こちらのお寺には最上勢から逃れた
白鳥氏家老青柳隼人によって
密かに長久の首級が運びこまれ
埋葬されたと伝わります。
以上
大石田町の原始古代から中世戦国時代までの
歴史と史跡のご紹介でした。
次回は近世江戸時代から近現代までの
歴史と史跡をご紹介します。
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