どーもKABUOです。
山形県村山市の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
今回は村山市の歴史と史跡を
時代を順に追いながら
1部、2部に分けご紹介します
今回は原始古代から中世戦国時代までの
歴史と史跡をご紹介します。
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村山市の歴史と史跡をご紹介!(原始古代~中世戦国時代編)⚔️
村山駅
村山市の歴史ですが1889年、
楯岡村と湯沢村が合併して町村制が施行され
新生楯岡村が発足すると
1892年、町制され楯岡町になります
1954年、楯岡町・西郷村・大倉村・戸沢村
大久保村・富本村・柚崎村が合併。
1955年、大高根村を編入し
市制を施行し村山市が発足します
しかし、
最上川東部沿いと西部沿いでは
文化や歴史的発展が違う事から
近代になっても違和感が拭えず
両地区の対立は深く市長選挙の際は
双方から立候補者が出て激しく争うなど
政争のまちと呼ばれた歴史がありました。
村山駅には楯岡荒町で作製された
巨大わらじが展示されており、
1941年、東京浅草寺を信仰しておりました
楯岡村出身の松岡俊三によって
雪害問題の解決記念と日支事変の
戦勝祈願を込めて奉納された事から始まり
現在でも10年に一度、
楯岡荒町地区の住民によって作製され
浅草寺に納められております
村山市役所
地名の由来ですが、合併に際し名称は、
当時の経済の中心地であった
楯岡の名が候補に上がりましたが、
合併他村との協議を経て、
この地方の総称を生かし村山地区の
中核都市へという意気込みと期待感をもって
「村山」と名付けられました。
( 村山市公式ホームページ引用)
中村遺跡縄文公園
原始の時代
村山市は先土器時代から弥生時代までの
遺跡は88を数え県内でも屈指の
遺跡数が確認されており
主に最上川周辺の河岸段丘、
東部山麓、西部山麓で発見されました。
こちらの中村遺跡縄文公園は
縄文時代中期の遺跡集落跡になり、
多く出土品が発見されていることから
村山市における中核的な集落であったと
推定されております。
河島山遺跡
古代の時代、律令制のもと
出羽国最上郡に属しておりましたが
886年、最上郡が二分され、
南が最上郡、北は村山郡となったので
当市域は村山郡に属するようなります。
律令体制が崩れて荘園が成立すると
11世紀頃には当市域は摂関家領小田島荘の
荘域に入っていたと思われる。
こちらの河島山遺跡は
旧石器時代を始め縄文・弥生・古墳
鎌倉・室町時代の板碑や五輪塔など
遺物、遺構が発見されており
古代蝦夷が築城したチャシ跡、
中世の城郭跡とも考えられており
県指定文化財に登録されております。
小田島荘の歴史を詳しく
記載した記事はこちらになります。
鬼甲城跡(富並楯)
頼義のスギ
村山市富並にあります鬼甲城跡、
康平年間(1058~1065)の頃
京都を落剝した落合入道大淋が
一族を連れてこの地に移り住み
鬼甲城を築城した事から始まりました
その後、朝廷と奥羽六群を統治した
安部氏の争乱、前九年の役のおり
安部氏一族と共に源頼義によって
鬼甲城は攻め滅ぼされたいわれ
富並八幡神社には戦勝記念として
頼義が植えたとされるスギの木が残されており
市の天然記念物に指定されております。
大久保城(大久保小学校)
中世の時代
足利尊氏と後醍醐天皇が争った
南北朝動乱の時代、
1356年、山形に入部した
北朝派武将、斯波兼頼は山形城を拠点に
周辺地域の南朝派武将討伐を行います
斯波兼頼はその後、最上と改名し
村山地方を掌握すると領国支配の方法として
一族封策がとられ各地に庶子を分封、
1398年、山形城主3代目最上満直の三男、
最上満頼を大久保城に
1407年、四男最上満国を楯岡城に封じ
村山市全域の統治を行いました。
大久保城は当初現在の宝鏡寺周辺に
築城されたとされており、
最上義光が村山地方掌握した後、
家臣大久保主馬介によって新しく整備され
現在でもお堀がしっかりと残されており
見ごたえがあります。
楯岡城跡
戦国時代
最上満国は楯岡城に入部後、楯岡氏と改名、
以降7代約190年にも渡り
楯岡地区を中心に統治を行いましたが
1577年、宗家である山形城主最上義光と
分家である天童城主天童頼貞が対立すると
楯岡城主、楯岡満英は天童氏に与します。
また本飯田を拠点とする飯田氏や
その他、東村山、北村山を中心とした
有力国人衆と天童八楯と呼ばれる
同盟連合軍を結成し最上義光に対抗し
見事撃退する事に成功しました。
しかしその後、最上義光は
国人衆に対し懐柔政策を行い調略すると
天童八楯連合軍は瓦解、
1584年、最上義光の猛攻により
天童城が落城すると楯岡満英は自害、
同じ一族である楯岡満茂が家督を相続し
以降、義光の片腕として多くの戦いに
従軍する事となります。
楯岡城の歴史と史跡は
こちらの記事で詳しく紹介しています
白鳥城と白鳥不動尊
天童城落城後、
村山地方の統一を目指す最上義光は
次なる調略の一手を討ちます。
河北町谷地城を居城とする白鳥長久を
病と偽り山形城に呼び寄せ刺殺を行います
白鳥城は白鳥氏の居城だったのですが
白鳥長久の時代に河北町谷地に居城を移し
白鳥城は廃城となりました。
白鳥城と白鳥長久の歴史と史跡は
こちらの記事で詳しく記載しています
土生田楯跡(大宮神社)
飯田楯跡
渓永寺
三吉スギ
村山地方を統一した最上義光は
家臣団を村山地方各地に配置しました。
土生田楯・富並城・大久保城の
築城、改修を行い領国の統治を行います
家臣飯田播磨守は元は飯田楯を居館とする
天童八楯の一員でありましたが内応に応じ
その後最上家の家臣として迎え入れられ
山形市飯田に移封を命じられ飯田楯を築城。
東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の最中、
畑谷城の救援に駆け付けるが城は落城。
追われて逃げてくる領民を避難救出するため
上杉軍と戦い討死してしまいました。
村山市土生田にあります渓永寺は
飯田播磨守の菩提寺でお墓も残されており、
裏山にあります三吉スギは
市天然記念物に登録されております
土生田楯跡の歴史と史跡を
詳しく説明した記事はこちらです。
楯岡の石鳥居
小松沢観音
楯岡地区にあります石鳥居は
最上義光の父、義守の寄進または
鳥居忠政の寄進とも伝えられており
建立の対象は甑岳か小松沢観音堂だと
伝えてられており、
楯岡の石鳥居から山沿いを進むと
最上三十三観音第20番札所
小松沢観音堂に到着します。
737年、行基が弥陀・薬師・観音の
3尊を掘ってこの地に安置し、
巖上三所権現と称したのが始まりとされ
山門の仁王門には楯岡荒町の
巨大わらじが奉納されております
以上
山形県村山市の原始古代~中世戦国時代の
ご紹介でした。
次回は村山市の近世近代史を
ご紹介します。
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