KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

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村山市 白鳥城と戦国武将白鳥長久の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

山形県村山市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は中世のお城跡白鳥城を中心に、

最上義光を相手に巧妙に立ち回り

村山地方の覇権争いを演じた戦国武将

白鳥長久をご紹介します。

 

 

 

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白鳥城と戦国武将白鳥長久の歴史と史跡をご紹介!🏯

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白鳥城三の丸跡(戸沢小学校)

 

村山市白鳥にあります白鳥城。

築城年代は定かではありませんが

白鳥長久によって築城されたお城です。

 

白鳥氏の出自ですが

前九年の役で源頼義、義家親子に討たれた

安倍頼時の八男、安倍行任が

岩手県胆沢郡白鳥村から逃れ

出羽の葉山山麓に潜伏し白鳥冠者八郎と

名乗ったのが始まりだといわれている。

後に山下に居館を構え白鳥郷と名付け

代々白鳥氏と称した。

 

また寒河江大江氏、

谷地中条氏の一族という説や

白鳥郷の館主として勢力を伸ばした

国人との説もあります

(現地説明看板引用)

  

現在村山市立戸沢小学校がある場所は

白鳥城の三の丸跡だとされ

駐車場や立て看板が設置完備されており

気軽に散策が可能となっております。

 

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白鳥不動尊

 

白鳥氏が史上にあらわれるのが

南北朝時代の頃からで

1403、鎌倉公方と伊達政宗の戦いでは

最上氏、大江氏とともに鎌倉公方につきます。

羽陽北仙伝記によると戦国時代の1512年

山形城主最上義定が北進の挙に出たとき

白鳥氏は義定に属して

出陣したと記されている。

(現地説明看板引用)

  

白鳥氏は南北朝動乱最中、

南朝派に与しており寒河江大江氏とは

緊密な関係であったと考えれており、

その後、北朝派であります

最上氏が勢力を広げると与しながらも

葉山修験の勢力を背景に

寒河江大江氏と共存しながらも

最上川西側一帯に勢力を伸ばしました。

 

こちらの白鳥不動尊は

白鳥氏が歴代守り本尊として宮下郷の

居館内に護持尊崇されていたものを

現在の場所に移築し安置しております。

 

また白鳥不動尊から

白鳥城二の丸跡からも近く

近くのコミュニティセンターに駐車すれば

散策も気軽に行えるようになっております。

 

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白鳥城本丸跡

 

白鳥氏の名を上げたのは

白鳥十郎長久である

若くして相当な政治勢力をおよび

武将としての矜持を身につけ、

鋭敏に時代の流れを感じる才覚があった。

 

1541年、伊達稙宗・晴宗親子が争った

天文の伊達氏の乱の際には、

長久が最上家援軍との

仲介の労をとった事が知られている。

永録年間(1558~1569年)頃

白鳥十郎長久は谷地城に進出して勢力を拡大し

 1574年には最上義光と

最上義守・伊達輝宗連合軍の戦いを

和解に導いた。

(現地案内板引用) 

 

白鳥長久という人物は現地案内板の説明通り、

時代の流れを読み取る力に長けており、

日和見主義を貫きながらも

戦いの膠着状態の最中、

仲介に名乗りでる事から周辺勢力に対し

一目置かれる存在でありました。

 

こうした動きの中1577年、

織田信長に名馬白雲雀と鷹二羽を献上し

中央権力者との外交工作を行い

出羽の覇者としての伸張を図るのですが

このような行いが出羽統一を目指す

山形城主最上義光から

警戒される事となります。

 

白鳥長久は織田信長に送った書状に

出羽の覇者であるかのように振る舞った事から

最上家祖、斯波兼頼より最上地方を

長く統治しておりました最上家にとっては

寝耳に水のような内容でありました。

 

激怒した義光はすぐさま家臣を信長に派遣し

最上家の家系図を見せ

正当性をアピールします。

信長はその内容から義光を

出羽地方の正当性のある統治者として認識し

書状に最上出羽守殿と付け返事を送りました。

 

白鳥長久は中央権力者と結び付き

その力を背景に出羽地方において

自らの権力を広げようと心みましたが

それがその後仇となり

白鳥氏が滅亡する事となります。

 

白鳥城を散策しますと

空堀跡や帯曲輪跡も残されており

また本丸跡の頂上からは白鳥地区が

一望する事が出来ます。

 

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白鳥長久公顕彰碑

 

1584年、最上義光は謀略をはかり、

十郎長久を山形城に誘き寄せる。

義光は病を装い御寝所に案内し

一巻の書を差し出す。

十郎長久がそれを受け取ろうとしたところを

貫打にて斬殺してしまう。

 

白鳥十郎長久が謀殺されたのち

最上義光によって谷地城・寒河江城は

攻め滅ぼされ、白鳥氏一族郎党は

この世から途絶えその動向については

いまに伝わるものはほとんどない

(現地説明案内板引用)

 

最上義光は自分の娘を嫁に差し出し

白鳥長久を調略しようと心見たのですが、

長久もそんな義光の動きに警戒心を抱きました。

 

考えた末に義光は病人のふりを行い

長久の油断を誘い討ち取る事が出来たのですが

大河ドラマ伊達政宗でも忠実に再現され

後世義光には暗いイメージが付きまとう

結果となってしまったのではないかと思います。

 

白鳥城は長久が谷地城に居城した後に廃城、

1981年、地元の有志の人達によって

長久を顕彰するための碑が建てられました。

 

白鳥城は本丸までの

散策路が綺麗に整備されており

史跡も多く残されておりましたので

村山市観光にお越しの際は

白鳥城もぜひ見学に訪れてください

 

以上

白鳥城と戦国武将白鳥長久の

歴史と史跡のご紹介でした。

 

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