どーもKABUOです。
山形県天童市の古い史跡を巡る
旅に行ってきました。
古代より人々が形成した集落跡
西沼田遺跡や戦国時代の天童城、
江戸時代の天童織田藩と
深い歴史が残る土地柄でした。
そんな天童市の歴史を3部に分け
ご紹介できればと思います。
前回は同市の戦国時代の
歴史と史跡をご紹介しました
興味ある方こちらもぜひご覧ください
今回は近世江戸時代に立藩された
天童織田藩の歴史や
近代・現代までの歴史をご紹介します
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天童市の近世・近現代史の歴史と史跡をご紹介!🏞️
水郷寺津資料館
寺津舟着場跡
近世の時代、
1600年、関ヶ原の戦いの後
江戸時代、最上義光は山形藩を立藩、
藩政に力を注ぎ入れましたが
1622年、義光亡き後、
最上家は家臣団同士の内紛が収まらず
幕府によって改易を命じられる事となりました
1622~44年頃
青森と秋田から江戸まで結ぶ
羽州街道が整備されると
天童駅前を中心に宿場町として
発展していくのですが
最上氏改易後、鳥居氏、保科氏、松平氏等
目まぐるしく山形藩主が変わる中
徐々に領土を狭め天童地区には
幕府領、館林藩高擶陣屋、
土浦藩北目陣屋等、他藩の飛地が
入り交じるという結果となってしまいます
天童市寺津地区は1723年、
幕府公認の河岸として認められると
最上川舟運の集積場として栄えます。
1758年には最上川全体の
45%にあたる145隻もの
商人荷物積船を持っており
寺津舟場に集積された荷物は
天童、山寺、仙台方面への
生活物資として供給されました。
現在寺津舟着場は埋め立てにより
殆ど遺構が残されておりませんが
水郷寺津資料館でその歴史を
学ぶ事が出来ます。
まゆはきの句碑
1689年夏、松尾芭蕉が弟子曽良が
旧山寺街道を通り山寺立石寺に
参拝に訪れたおりに石倉周辺より
紅花畑が満開に咲き誇っており、
「まゆはきの俤にして紅花の花」
という一句を読まれまれた事から
こちらの記念碑が建てられました。
天童陣屋跡(喜太郎稲荷神社)
そして時は経ち1830年、
天童に多くの飛地領土を持っておりました
高畠織田藩は幕府と交渉を行い
領土を高畠から天童へ移し陣屋を設立、
天童藩を立藩する事となります。
現在天童陣屋跡地は
山形駅から天童駅を結ぶ
奥羽本線が陣屋敷地内を通り
遺構の面影が殆ど残されておりませんが
天童陣屋案内する説明板が
設置されておりました
広重美術館
天童織田藩は2万石程度の
小さな小藩だった為、
高畠から天童への陣屋移動の出費や
飢饉による税収不足を補うため、
裕福な商人や農民に基金を募り
借金を大幅に増やし続けるような
とても財政が苦しい状態でありました
そんな中、天童藩士と交遊を持っておりました
浮世絵師歌川広重に頼み込み
肉筆画を描いて貰い借金の御礼や返済として
広重の浮世絵を贈呈します。
その為、天童市内には
歌川広重の作品が数多く残されており
生誕200年にあたる1997年、
広重美術館が開館される事となります。
吉田大八像
天童藩の財政難を救うべく
天童藩は家老吉田大八は救済策として
武士の内職の実践を試み、
米沢藩から将棋駒作りの
指導者を招き入れる政策を行いました。
当初藩内では批判的な考えを持つ
藩士も多かったのですが将棋の駒作成なら
軍事にも有効だということで
武士のプライドを保つ理由となり以降、
天童藩では将棋の駒作りが
奨励される事となります。
天童市将棋駒の歴史を
こちらの記事でも紹介しております。
戊辰戦争古戦場跡地
1869年、江戸時代末期。
京都鳥羽・伏見で事を発した
幕府軍と新政府軍による
戊辰戦争が勃発すると
東北地方、そして天童藩領内でも
戦禍の渦に巻き込まれる事となります。
天童織田家という家柄から
新政府軍は奥羽鎮撫使先導役として
病弱な藩主に代わり、吉田大八は
奥州の道案内を務め、
同年4月に東北各藩と供に最上川を挟み
幕府側である庄内藩と交戦。
しかし庄内藩に同情する者も多く
また新政府軍の横暴な振る舞いから
新政府軍を裏切り幕府方へ味方します
天童藩もその流れへと加わる事となると
先導を行った吉田大八は板挟みとなり
責任を負わされ切腹し
自害するのでありました。
天童藩と吉田大八の悲劇を
詳しく掲載した記事はこちらです。
東村山郡役所(旧東村山郡資料館)
近代、明治時代。
新政府軍の優勢が決まると
1871年、廃藩置県が行われ
天童県が一時誕生しますが
同年8月、山形県へと編入。
1878年、行政区画として
東村山郡が発足すると
翌1879年、東村山郡役所が設立され
東村山郡の中心都市として
栄える事となりました。
その後、郡役所としての役目が終わった後も、
天童市役所や市立図書館として利用され
現在、旧東村山郡資料館として使用、
天童織田藩の歴史や郷土資料が展示されてる他、
1891年、明治天皇による東北巡幸で
小休止で使用された事を記念した
石碑が敷地内に建造されております
格知学舎
格知学舎は1869年、
上山藩学校で教授を行っておりました
儒学者本沢竹雲によって開かれた
私塾跡地になります。
格知学舎1946頃まで使用され
仏教や儒教を中心とした教えは
近隣から多くの子弟が入門し
地域社会に多大な影響を与え、
県指定史跡に登録されており
秋には紅葉が見頃を迎える
隠れた秋の名スポットとなっております。
御苦楽園
昭和初期
アメリカの株価大暴落による
世界恐慌は日本にも不況の波を襲い
日本の経済にも大きなダメージを受け
天童地区でも多くの失業者を生み
生活困窮者で溢れかれっておりました
そんな時代こちらの御苦楽園は
実業家水戸部弥作氏によって
1日に50人から300人の人夫を集め
失業対策をかねて8年の歳月をかけて
築園された日本庭園になります。
庭園を歩くと修養が書き記した
柱石が立ち並び渡哲也や吉永小百合も訪れ
格言金言に触れ感動してお聞きしました。
あまり有名ではありませんが
ここは隠れたおすすめスポットですので
ぜひ訪れて欲しいと思います。
天童温泉
現在天童市は1886年に開湯された
天童温泉に魅力ある旅館が立ち並ぶ
温泉街として多くの観光客を集め、
サクランボや果物の生産も盛んに行われる
魅力ある街となっております。
山形観光にお越しの際は
ぜひ天童市に立ち寄ってみてください
以上
天童市の歴史と史跡のご紹介でした。
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