KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

弘前市 津軽為信の歴史と史跡をご紹介!⚔️

どーもKABUOです。

 

青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は津軽地方を統一に導いた戦国武将、

津軽為信の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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津軽為信の歴史と史跡をご紹介!⚔️

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津軽為信像

 

津軽の英雄、津軽為信

三国志の関羽に憧れ

髭を貯えていた事から髭殿様とも呼ばれ、

津軽地方では独立を導いた

英雄と評価される一方、

南部地方では主君を裏切った裏切り者と呼ばれ

調略による戦いが多いことから

ダーティーなイメージがあることから

評価が分かれる戦国武将です。

 

彼の歴史を年代別に見ながら

為信の実態像に迫って見たいと思います。

 

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種里城趾

 

津軽氏の出自ですが

1491年の室町時代の頃、

南部地方で勢力を伸ばしていました南部信時は

西津軽郡一帯を治める津軽安東氏との間で

激しい勢力争いを繰り広げており、

現在の鰺ヶ沢町種里に一族であります

南部光信を配置し安東氏に対する

牽制を行います。

 

光信はその後、この地に種里城を築城し、

津軽氏の祖となる人物になります。

 

種里城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです。 

www.yamagatakabuo.online

 

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大浦城趾

 

1492年津軽安東氏を破ると

1502年、南部光信は

弘前市旧岩木町に大浦城を築城すると

嫡男であります盛信に居城させ大浦氏と改名、

以後4代に渡りこの地を治める事となります。

 

大浦氏は鰺ヶ沢の港で交易を行い財をなし

南部氏一族の中では独特の勢力を持っており

1541年、3代目城主大浦政信の時代、

南部氏家臣である小山内氏との争いでは

政信は戦死してしまいますが、

この頃から大浦氏の間には南部氏から

独立を図る計画があったと推測されております

 

大浦城の歴史と史跡を

こちらの記事でも紹介しています 

www.yamagatakabuo.online

 

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赤石城跡(高倉神社)

 

津軽為信は1550年に生誕したと

記録に残されておりますが

出自に津軽氏と南部氏の記録では

食い違いがあり、また様々な説が残され

出生には多くの謎がある人物です。

 

南部氏の記録によると

南部氏支族の下久慈城主であった

久慈氏の出と記録に残されております。

いっぽう津軽氏の記録によると

4代目城主大浦為則の弟、守信の子だとされ

その後、1567年(1568年説もあり)

17歳で為信は大浦為則に養子に出され

大浦氏を継ぎ大浦城主となり、

津軽統一への歩みが始まりました。

 

写真の赤石城跡は

種里城の支城として築城され

為信が生まれた城とされており

嫡子館とも呼ばれております。

 

赤石城の歴史と史跡を

こちらの記事でも紹介しています。

www.yamagatakabuo.online

 

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堀越城

 

為信は手始めに浅瀬石城主

千徳政氏と同盟を結び

(一説には大浦為則の時代から密約が

交わされていたともされております。)

1571年、津軽地方の中心的人物であった

石川高信の居城を石川城を攻め落とす為、

支城である堀越城で工事を装いながら

武器や兵糧を集め戦の準備を整えます

 

そして城の修復が終わったと偽り、

石川城家臣団も集め酒宴を開き

相手を油断させたその隙に、

石川城を奇襲し攻略、

高信を自害に追い込みました。

 

堀越城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです

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石川城跡(大渕ヶ鼻城跡)

 

石川城が落とされ激昂したのは

石川高信の子で南部氏24代目当主、

南部晴政に養子に出され

次期当主と目された南部信直でした。

 

しかし南部晴政の間に実子、晴継が誕生すると

信直は疎まれるようになり、

南部氏の間で内紛が始まると

為信、晴政両者による挟み撃ちを受け

信直自信の身の危険性から

討伐隊を送り込む事が叶いませんでした。

 

一説には為信が晴政と内通を図り

信直一派を弱体させたい思惑から

津軽地方をかすめ取るよう

示唆したという説があります。

 

また南部氏の記録では詳細が変わっており、

1572年、石川高信の次男である

石川政信が城を継承したとされ

為信が妹である久を愛妾として差し出し

久ともに毒殺したとも記録に残されております。

 

津軽氏の記録では計略を練り

奇襲によって攻略した策士であるいっぽう

南部氏の記録では妹を顧みず見殺しにした

ダーティーな一面が記録されています。

 

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和徳城跡(和徳稲荷神社)

 

石川城を攻略した為信は直ぐ様

小山内讃岐が守る和徳城にも奇襲をかけ

一日で二城も攻め落とす

離れ業をやってのけました。

 

石川城と和徳城は堀越城からも程近く

南部氏の援軍が駆けつけないよう

周到に軍略を練って作戦を行った事が

推測されます。

 

これを切っ掛けに為信は堀越城を拠点に

南部氏支城を次々と攻め落とすのでありました。

 

石川城や和徳城の歴史を

こちらの記事でも紹介しています

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大光寺城趾

 

1575年、滝本重行が城代を務める

大光寺城を重行に恨みを持つ

乳井城主乳井建清と共に為信は攻め立てるが

反撃を受け敗走します。

しかし1576年、為信は重行の意表を付く

雪深い正月に奇襲作戦を行うと重行は逃亡、

大光寺城とその尾崎城、高畑城等の

各支城を攻略します。

 

大光寺城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです

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浪岡城跡 

 

1578年、為信は北畠親房の後裔、

浪岡北畠氏の居城、浪岡城を攻め立てる為、

城内に伏兵を潜入させ放火を行い、

混乱に乗じて浪岡城を落城させました。

 

石川城や大光寺城、浪岡城の

攻防を紐解きますと

為信の軍略は正攻法で戦うよりも

相手の意表を付く奇襲を使い

戦いを進めていたことがよくわかります。

 

こういった事実から為信には

ダーティーなイメージが付きまといますが

冬の厳しい環境を持つ津軽地方の気候に加え

石高も中央と比べ期待できない事から

いかに人を温存する重要性から

このような作戦を思いたったとも考えられ

後に、同じタイプである山形城主

最上義光に気に入られる事も考えると

理解できるかと思います。

 

浪岡城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです

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 茶臼館跡 

 

浪岡北畠氏の滅亡により婚姻関係でありました

秋田檜山の安藤氏と関係性が悪化すると

大光寺城主滝本重行や浪岡一族と連合軍を組み

1579年乳井城と茶臼館が攻め落とされると

六羽川ににて両軍が激突!。

為信軍の劣勢でありましたが

家臣田中太郎五郎が

為信の身代わりとなり討死、

安藤連合軍の油断を付き為信軍の反撃によって

この危機を脱する事が出来ました。

 

六羽川合戦を紹介した記事はこちらです

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藤崎城跡(藤崎八幡宮)

 

 

1585年、ここ藤崎城で

正室阿保良の二人の弟が川遊びの最中、

溺死するという不可解な事件が起こりました。

 

この事件に対して様々推測がされ

当初為信は二人の弟の繋ぎとして

大浦氏の家督を継いだと推測されており

事件が起きたこの時二人の弟は成人しており

川遊びで溺死するとは考えられない事から

家督争いの懸念から為信の命によって

暗殺されたのではないかと

考えられております。

 

阿保良と為信の夫婦は

仲睦まじいかったとされますが

二人の弟を失った阿保良の悲しみは

戦国の世だとしても深く心を傷つけた事でしょう。

 

藤崎城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです。

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田舎館城跡

 

田舎館城主、千徳政武は

浅瀬石城主千徳政氏の弟でした。

 

彼は高潔な人柄で家来や良民の尊敬を集める

人物でありましたが為信と政氏との同盟には

南部氏の恩義があるからと

一貫にして反対した立場を取っておりました。

 

為信は政武の人柄に随分惚れ込んでおり

1585年、政武の友人である

清藤長兵衛を使者にして降伏勧告を行いますが

政武は降伏を拒否した為、

惜しみながらも田舎館城に侵攻し落城させました

 

田舎館城の歴史と史跡を

こちらの記事でも紹介しています。 

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横内城跡

 

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油川城跡

 

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蓬田城跡

 

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高楯城跡


そして1585~ 1588年にかけて

横内城、油川城、蓬田城を攻め落とすと

最後に浪岡氏滅亡後も最後まで抵抗を続けた

朝日行安が立て籠る高楯城を攻略し

足掛け17年を掛けて津軽地方一帯を

統一する事が出来ました。

 

横内城、油川城、蓬田城の歴史を

こちらの記事でも紹介しています

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 海童神社

 

津軽地方を統一した為信は

山形城主最上義光の助言を受け

中央で勢力を増しておりました

豊臣秀吉対する対外工作の必要性から

1589年、石田三成の仲介を受け

鷹と名馬の献上を行いました

 

そして 1590年、

小田原征伐に自ら参陣し秀吉と謁見、

津軽地方の所領を安堵される事となり、

名を津軽為信と改める事となります

 

一方南部氏は晴政の死後、

南部信直が一族の反乱を押し退け

南部氏当主に就任すると、

同じく秀吉に謁見を行い

大名間の私闘を禁じた惣無事令に

違反するとして訴えかけかけましたが

為信の対外工作の項を成し、

訴えを退ける結果となってしまい

その為か南部氏の仲介を行った

前田利家からは裏表がある人物と

評価を受けております。

 

その後、九戸政実の乱を押さえ込み

文禄・慶長の役では名護屋城まで

参陣するなど活躍を見せました。

 

写真の海童神社は

為信が文禄・慶長の役の際、

海上安全を祈願して海神を祀ったのが

始まりとされる神社になります。

 

海童神社の歴史と史跡を

こちらの記事でも紹介しています

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 浅瀬石城跡

 

しかし為信の活躍を苦虫を噛み締める思いで

見ていた男がおりました。

同盟を組んでおりました浅瀬石城主千徳政氏は

1585年に起こった南部氏による

浅瀬石城攻略により猛攻を受けましたが

この時に為信は援軍を出さなかった事から

両者不和となる原因を作ってしまい、

また津軽独立のあかつきには両者で

分割統治する密約をへておりましたが

約束は守られず、津軽家の家臣団の

一員として扱われる等、不満を蓄積。

 

その為1597年同盟を破棄し、

浅瀬石城に立て籠り徹底抗戦しましたが

味方の裏切りもあり嫡子政康と共に

自害し果てました。

 

また別の記録書では

政氏と政康親子が堀越城に呼ばれ

毒殺されたとの記録も残されており

真相は定かではありません。

 

浅瀬石城の歴史と史跡を

こちらの記事でも紹介しています

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最勝院

 

 1600年、関ヶ原の戦いでは為信自信、

三男信枚と共に東軍として

大垣城攻めに参加する一方、

豊臣秀頼の小姓を勤めていた嫡男信健を

西軍につかせ他大名と同じく

どちらに転んでも良いよう二重工作を行い

合戦後に上野国大舘2000石の

加増を受けます。

 

為信の家臣の中には石田三成の

勝利を疑う事のない家臣も多かった為、

関ヶ原の合戦中に津軽の国本で反乱が起こり

一時堀越城を占拠されますが

西軍の敗北に終わると為信によって

討伐されてしまいます。

 

しかし為信自信、

石田三成には恩義を感じていたそうで

石田三成の次男重成と次女辰姫を

津軽の地に匿いその後、

重成は津軽家の藩士として迎えられ

辰姫は信枚の正室に迎えられました。

 

1603年、為信は

津軽統一の過程で戦没した敵味方を

こちらの景勝院で供養を行い

元々は種里にあったお寺ですが

1647年に現在の場所に移転したと

言われています。

 

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革秀寺

 

関ヶ原の合戦後、弘前藩を立藩すると

初代弘前藩主として為信は

津軽地方の治世を治める事となります。

 

合戦の最中、堀越城の防備不足から

現在の弘前城の築城計画を

打ち立てたその最中、

新しい城を見る事なく

1607年、58歳で為信は京都で病死。

没した翌年、弘前藩2代目藩主信枚によって

菩提寺としてこの革秀寺を創建しました。

 

以上、津軽為信の歴史のご紹介でしたが

歴史を時系列で読みときますと

策略と裏切りのイメージが付きまといますが

彼が津軽統一を目指した経緯ですが

今でこそ津軽平野で取れる

上質なお米は有名ですが

彼が治めた西津軽地方は平野も少なく

寒冷地帯の為、稲作に大変苦労を余儀なくされ

農民も南部氏からの

重い年貢に苦しんでおりました

 

その為、為信は津軽地方の中心勢力であった

石川城主石川高信に現状を訴えたところ

聞く耳を持ってもらえなかった事から

自らの手で治世を治めようと

津軽独立を目指すこととなり、

農村に住む民、百姓からは

為信は慕われる存在でありました。

 

為信のイメージは

津軽氏と南部氏の資料から

かなり食い違いがあることから

為信のイメージが極端に歪曲された

可能性があることは否定出来ません。

 

しかし、津軽為信の弘前藩はその後

幕末まで250年あまり続き

現在の津軽地方の基礎を作りあげた

評価されるべき人物だと思います。

 

以上、津軽為信の歴史と史跡の

ご紹介でした

 

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