どーもKABUOです。
青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
今回は西津軽郡深浦町にあります
岩崎地区の歴史と史跡をご紹介します。
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岩崎地区の歴史と史跡をご紹介!🏖️
陸奥岩崎駅
深浦町岩崎地区の歴史ですが
1889年、町村制施政により
岩崎、沢辺、正道尻、久田、森山、松神
黒崎、大間越の村々が合併し岩崎村が発足。
2005年、平成の大合併により
深浦町に編入され現在に至ります。
当地の海岸近くの弁天島が岬のように
突出していることから
地名の由来となりました。
深浦町中心街の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
像岩
中世の時代。
鎌倉時代から室町時代にかけ
日本海沿いは北条得宗の地頭代として
津軽安東氏によって統治されておりました
岩崎地区の伝承によると
南朝方の落人や諸国浪人が
当地を開拓したという伝承が残されており
また1373年 、
長慶天皇が津軽外ヶ浜に来たとか
後亀山天皇の皇孫タカヒト王が開拓に
従事した説も残されておりますが、
景勝地としても知られてる像岩ですが
その昔この地を荒らし回った海賊の
住みかだとされており、倭寇によって
開拓されたとの説と様々な説が残されております
津軽安東氏の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
菊地館跡・菊地刑部の墓碑
南北朝動乱の時代、津軽安東氏はその後、
八戸南部氏との勢力争いに敗れ
秋田県北部に退却すると
南部氏が治める事となりますが、
1571年、津軽独立を目論む
大浦為信によって各支城が攻略されると
津軽地方は為信によって統治されました。
岩崎地区には為信の家臣、
菊地刑部によってこの地を統治されたされ
地区には刑部の居館、菊地館や
龍王寺には刑部のお墓等の史跡が
残されております。
津軽為信の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
森山館跡・茶右衛門館跡
江戸時代
大浦為信はその後、津軽為信と名を改め、
弘前藩を立藩する事となります。
こちらの森山館跡は
中世の頃に築城された館跡になります。
秋田県桧山地方を拠点に置く
檜山安東氏の家臣森山季定の居館でしたが
安東氏宗家に叛いた為、 1546年、
安東尋季と蠣崎季広よって攻め落とされました
その後、津軽為信の家臣である
小野茶右衛門の居城となり
茶右衛門館とも呼ばれておりましたが
海賊行為を働いた説、横暴行為を行った説、
そして津軽氏の跡目争いによる
津軽騒動によって謀反の疑いをかけられた説
様々な説がありますが1614年、
弘前藩2代目藩主津軽信枚の家臣、
笹森由左衛門よって攻め滅ぼされてしまいます。
お城の様子を確認した所、
断崖絶壁の天然の岩肌を巧みに使った
とても見ごたえのある館跡でした。
大間越関所跡
大間越関所跡は、
1603年、秋田久保田藩の立藩によって
弘前藩との国境が確定されると
1622年、津軽信枚によって設けられました。
弘前から秋田を結ぶ街道沿いを
大間越街道、西浜街道とも呼ばれ、
岩崎、大間越の村久には宿場町が設けられると
参勤交代に使用された他に、
荷物や人々の往来が激しかった歴史があります。
1665年、
4代目藩主信政の時代に
碇ヶ関を通る羽州街道が整備されると
参勤交代には使用される事はなくなりますが
野内、碇ヶ関の関所共に津軽三大関所とも呼ばれ
明治時代の1869年の全国関所廃止まで
使用され続けました。
弘前藩の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
十二湖
現在岩崎地区ではマグロやイワシ、
ハタハタの漁業が盛んに行われており、
1704年の能代地震のによって
山々が崩れ落ち川が塞き止められ形成された
十二湖は人気観光スポットとなっております。
青森県深浦町にお越しの際は
ぜひ岩崎地区まで観光に訪れてみてください
以上
岩崎地区の歴史と史跡のご紹介でした。
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