どーもKABUOです。
青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
今回は西津軽郡深浦町の
歴史と史跡をご紹介します。
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深浦町の歴史と史跡をご紹介!🏖️
深浦駅
深浦町の歴史ですが1889年、
町村制の施行によって深浦、広戸、追良瀬、
横磯、月屋、艫作村が合併し深浦村が発足。
1926年、町制指向を行い深浦町になります。
1955年、大戸瀬村と合併、
2005年、平成の市町村合併の祭、
岩崎村と新設合併を行い現在に至ります。
岩崎地区の歴史と史跡の
紹介はこちらの記事です
深浦町役場
古来より吹浦とも呼ばれており
入江が深く天然の良港であったことが
地名の由来となっており、
白神山地に水源を持つ河川を中心に
縄文・弥生時代の遺跡も発掘され、
原始時代から人々が住んでおりました。
円覚寺
古代の時代
この地は蝦夷の民によって
生活が営まれておりました。
658年、
斉明天皇による蝦夷討伐の命を受けた
阿倍比羅夫の軍勢により
秋田・能代が攻め込まれ後に降伏します
このとき秋田・能代の蝦夷の民は怖れて
朝廷に服従を誓うと比羅夫は
秋田・津軽に郡領を定め
有間浜で蝦夷の民等を集めて宴会を開いたと
日本書紀の記録に残されております。
有間浜は諸説ありますが
深浦では無いかと考えられており
またそれは古代の時代から続く
朝廷と蝦夷との戦いの歴史でありました。
写真の円覚寺は807年
坂上田村磨呂が蝦夷討伐を行った際、
ここに陣屋を置き観音堂を創建。
聖徳太子作とされる十一面観世音菩薩像を
安置したと伝わっており、
国の重要文化財に指定されている
薬師堂内厨子や日本最古といわれる
北前船の船絵馬等が奉納されております。
関の古碑郡・関の杉
中世の時代
鎌倉期、この地は西浜と称され
十三湊を本拠とした津軽安藤氏によって
統治されておりました。
十三湊を活かした海上交易より
巨大な勢力を築いた津軽安藤氏でしたが
1322年~1328年にかけ
津軽大乱(津軽騒動)と呼ばれる
一族間の内紛を起こすと、
西浜折曽関に城郭を築いて争いました。
その後、鎌倉幕府仲介によって
和談が成立しましたが
幕府による統治能力の弱体化を露見してしまい
鎌倉幕府が滅亡したきっかけの
一つだと考えられております。
古碑の内容はよく分かりませんが
中世の津軽地方を知る為の
貴重な史跡となっております。
なた古碑の隣に樹生しております
関の杉は鎌倉時代の武士の墓標だといわれ、
県指定天然記念物として指定されており、
見ごたえがありました。
北金ヶ沢のイチョウ
関の古碑近くにあります北金ヶ沢のイチョウ。
古くから婦人が乳の出る事を祈る
垂乳根の銀杏として信仰され、
樹齢1000年以上。高さ31mと
日本最大級の規模を誇ります
11月~12月の秋にかけ葉が黄色に色付き
見頃を迎えると夜にはライトアップされ
多くの観光客が訪れる人気スポットと
なっております。
元城(深浦館)
南北朝時代。
津軽安藤氏は北朝派に属しており、
南朝派である南部氏と津軽地方を巡る
激しい勢力争いが続きますが、
徐々に南部氏が優勢になると
津軽安藤氏は津軽地方を捨て
1432年、
蝦夷ヶ島(北海道)へと退却をしまが
旧領土回復を目指す津軽安藤氏によって
度々津軽に上陸を行い 南部氏に抵抗を行います。
こちらの元城は同族の残兵が
この地に立て籠り築城したお城で
激しく南部氏に抵抗を行いました。
その後、津軽安藤氏は秋田に勢力を置く
同族を頼りに拠点を秋田県檜山地方を移し
津軽地方奪還を目指しましたがその願い叶わず、
旧領土を奪い返す事はなりませんでした
津軽安東氏の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです
見入山観音堂
室町時代に創建されました見入山観音堂
山伏の修験場であったといわれており
津軽観音霊場第9札所になります。
津軽霊場の中でも最も難所だとされており、
こちらの場所に撮影に向かった際、
急勾配の坂道をかなり歩き、
疲労困憊となりましたが
断崖絶壁に造られたお堂や
追良瀬の渓流を望む事ができ
とても見ごたえがありました。
御仮屋
室町時代・江戸時代
津軽地方を治めた南部氏でしたが
1571年、同族である津軽為信は
南部氏による支配に不満を抱き、
津軽独立を目指すべく行動をお越し、
南部氏の各支城を攻略します。
その後、最上義光の助言を受け
深浦港から船を使い上洛を果たすと
太閤秀吉と謁見し領土を安堵され
津軽地方を統治する事となります。
江戸時代、弘前藩を立藩すると
この地に奉行所が置かれ御仮屋とも呼ばれ
藩主巡幸の折の旅館としても利用されました。
高台の上にありますので
深浦町の景色を一望することができる
おすすめスポットとなっております。
津軽為信と弘前藩を
紹介した記事はこちらです
風待ち館
天然の良港に恵まれた深浦港は
江戸時代中期から明治時代中期にかけて
上片と蝦夷地を結ぶ北前船の寄港地として
人々や荷物の往来で活気が増し
大きく栄えた歴史がありました。
こちらの風待ち館では北前船の模型や
北前船の関係資料が展示されており
当時の歴史の様子を学ぶ事が出来ます。
千畳敷海岸
1792年の大地震による
地殻変動によってできた千畳敷海岸。
その由来は当時の津軽の殿様が
千畳の畳を敷いて宴会を開いた事から
この名が付いたとされます
駐車場も完備されお盆に訪れた所、
海水浴を楽しむ多くの子供連れの親子で
賑わいを見せておりました。
太宰の宿 ふかうら文学館
近現代の時代。
明治20年北前船が姿を消し
町は衰退を余儀なくされますが、
その後水産業に振興を求め、
底引き網漁が盛んとなり
町に活気が戻るようになりました
ふかうら文学館は太宰治の小説、
「津軽」にも取り上げられた
旧秋田旅館を改築したもので、
太宰治が宿泊した部屋を再現した
太宰の宿泊の間や深浦町に縁のある
文人達の作品が展示されております。
太宰治の関連記事はこちらです
深浦まるごと市場
現在深浦町では
マグロ漁業が盛んに行われており
ご当地グルメ、深浦マグロステーキで
観光に力を入れております。
青森県にお越しの際は
深浦町に観光に訪れてみてください
以上
深浦町の歴史と史跡のご紹介でした。
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