どーもKABUOです。
青森県津軽地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました
今回は城下町の雰囲気が色濃く残る
黒石市の歴史と史跡をご紹介します。
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黒石市の歴史と史跡をご紹介!🏞️
黒石駅
黒石市の歴史ですが1954年
黒石町、中郷村、六郷村、山形村、
浅瀬石村が合併し黒石市となります
黒石市役所
地名の由来は
古来蝦夷の住んでいる所を
「くじす」「くにす」と呼ばれ
黒石はそれぞれ転訛したものと
言われていますが詳細は不明です。
浅瀬石川
原始・古代の時代
黒石市には原始・古代の遺跡が
50余り浅瀬石川流域から発見されており
古くから集落を形成されておりました。
旧黒石城趾
中世の時代。
鎌倉時代に入りますと
平川市平賀地区に地頭代に任された
曽我氏一族によって黒石市と南津軽郡一帯を
統治される事となります。
南北朝時代。
1333年鎌倉幕府が滅亡すると
北条一族の安達高景と名越時如が
この地まで逃れ曽我氏によって匿われますが
朝廷側による追撃と一族の離反によって
曽我氏は滅亡。
この合戦の恩賞で田舎館郡地頭代でありました
工藤貞行がこの地を授かり
黒石城を築城し統治するのですが、
貞行の娘かいず御前を
南部地方で勢力を拡大させていた
南部信政に嫁がせます。
貞行の死後、南部信政はかいず御前の子
力寿丸に領地を与え黒石地方は
南部氏一族が所領する事となり、
黒石の地名が文献上で
初めて記載された出来事でありました。
浅瀬石城趾
南部氏の所領になるのですがその後、
南部氏家臣であります
浅瀬石城主千徳氏に与えられ
350年余りこの地方を統治します。
1597年、南部氏の一族であった大浦為信は
千徳政氏と同盟を結び南部氏に反旗を翻えすと、
千徳政氏と南部氏が交戦する事となるのですが
この時為信は援軍を送らなかった事から
両者不和となりその後、為信に攻めこまれ
浅瀬石城は落城し千徳氏は滅亡。
以降、大浦為信は名前を津軽為信と改め
津軽地方を統治する事となりました。
津軽為信の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです
じょんがら節発祥の地
津軽を代表するじょんがら節。
その歴史は千徳氏の滅亡の最中、
神宗寺の常縁和尚が千徳氏代々の位牌を
抱いたまま浅瀬石川に身を投げ果てます。
その後、和尚の亡骸が発見されると
不憫に思った近隣村民によって埋葬され
千徳氏の悲運を嘆き、常縁和尚の名を借りて
唄った口説節がじょんがら節の発祥だとされます
黒石陣屋跡
江戸時代
弘前藩が立藩されるのですが
3代目藩主信義が早死してしまい
4代目藩主信政がまだ幼少だった為、
幕府の指示により叔父の津軽信英が
後見人を引き受けます。
信政が弘前藩を継ぐと同時に
信英は黒石と平内、飛び地領地である
上野国大舘5000石を分知されると、
黒石陣屋を中心に城下町を形成。
その後、1809年
1万石まで加増され黒石藩が立藩され
明治時代までこの地を治める事となり
現在の黒石市の基礎を築きあげました。
弘前藩の歴史と史跡は
こちらで紹介しています
黒石神社
黒石の基礎を築き上げた津軽信英の死後、
信英の遺命によって儒道で埋葬され
陣屋の東側の地に埋葬されたのが始まりで
1879年、旧士族によって神社が創建され
現在に至ります。
長谷沢神社
中野神社
長谷沢神社と中野神社は
碇ヶ関ににあります國上寺と合わせ
津軽三不動と呼ばれており
三不動を一日でまわれば願いが叶うとされ
多くの参拝客が訪れ、
また中野神社は秋になりますと
弘前藩9代藩主津軽寧親が
京都から移植した100種の楓が赤く染まり、
紅葉の見頃を迎えると大変賑わいを見せます
黒森山浄仙寺
1824年、是空行者によって
開山されたこちらのお寺は明治の始め頃、
寺子屋「黒森学校」が開かれ
津軽一帯から多くの志を持つ若者が集まり
政治、経済、文学と多くの有名人を
排出した歴史があるお寺になります。
中町こみせ通り
現在黒石市では藩政時代に築きあげられた
城下町の雰囲気が現在でも残されており
京都や秋田角館の武家屋敷ともまた違う
雪国東北ならではの貴重な建造物が
多く残されており多くの
観光客が訪れております。
青森県に観光に訪れましたら
ぜひ黒石市に観光に訪れてみてください
以上
黒石市の歴史と史跡のご紹介でした
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