どーもKABUOです。
青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る
旅に行って来ました。
今回は日本史上最悪の遭難事件と言われた
八甲田雪中行軍遭難事件の
詳細や歴史についてご紹介します。
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八甲田雪中行軍遭難事件の歴史をご紹介!
青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館
開館時間 9:00-16:30
遭難事件のあらましですが1902年、
ロシアの南下政策によって
近い将来戦争が起こると予見した
日本陸軍によって対ロシアを想定した
極寒地での行軍演習が行われました。
(その後、軍部の予見が当たり
1904年に日露戦争が起こります)
こちらの資料館では
八甲田雪中行軍遭難事件の資料が展示され
事件の歴史を学ぶ事が出来ます。
青森から出発した青森歩兵第5連帯は
八甲田山を目指し行軍しますが
この時、記録的な大寒波が日本を襲い
悪天候により地元の案内人にの助言により
訓練中止を余儀なくされますが
それを無視して強行演習する事となります。
しかし訓練隊の中には
雪中行軍に詳しい人物が存在しなかった事、
また凍傷についての情報不足によって
軽装備で入山した事、
また上官による指揮系統の混乱によって
その後の悲劇を生む結果となりました。
行軍を初めて2日目に道を誤り遭難すると
隊の中から凍傷者が出始め
行軍を中止し帰営を決断しますが
猛吹雪によって道が雪に埋まり
帰る道を見失い各隊が次々と離反します
そのような地獄の状況の最中
服を脱ぎ出すもの、
木を切って筏を作り
川を下って行こうとするものと
発狂する者が現れるようになりました。
行軍から4日目、到着の遅れを心配し
救援隊が救援に向かうと
多くの凍死者を発見する事となり、
訓練者210名中、199人が命を落とす
悲惨な事故を生み出す事となります。
その後、生存者で行軍の指揮を担当した
山口少佐が生き残る事が出来ましたが
事件の責任を取りピストル自殺を図ります。
しかし、彼は凍傷で指を動かない事や
ピストルの発射音が聞こえなかった為、
軍部によってクロロフォルムを使った
毒殺が行われ、事件をうやむやにしようとした
ではないかと現在考えられております。
八甲田山雪中行軍遭難資料館に隣には
亡くなった方々を弔う
お墓と石碑が建てられておりました。
その後、この事件を題材に
浅田次郎によって小説が描かれ
高倉健や緒形拳が出演した映画、
八甲田山で多くの方がこの事件の
全貌を知ることが出来ました。
こちらの映画の資料は
八甲田山ロープウェイの乗り場に
展示されております。
後藤伍長の銅像
現在、八甲田山には遭難事件で
立ったまま仮死状態で生き残り発見された
後藤伍長の銅像が鎮座されており
悲惨な事件を現代に伝えております。
情報収集の不足、指揮系統の混乱、
事実の隠蔽、専門家の排除は
現代社会にも通じる教訓が残されており
学ぶべき事が多い事件だと思いますので
青森市に観光に来られたら
ぜひ八甲田雪中行軍遭難事件の
歴史について学んでみてください
以上、
八甲田雪中行軍遭難事件の
歴史のご紹介でした。
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