どーもKABUOです
青森県津軽地方の歴史と史跡を巡る
旅行に行ってきました。
今回は青森県平内町の
歴史と史跡をご紹介します。
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平内町の歴史と史跡をご紹介!🏖️
小湊駅
平内町の歴史ですが、
1889年の村制施行によって
中平内村、東平内村、西平内村が誕生、
1928年に中平内村が
小湊町として町制施行しました。
そして1955年に
小湊町、東平内村、西平内村が合併し
平内町となり現在に至ります
平内という地名の由来は
アイヌ語のピラ・ナイからきており、
ピラは山と山の間、ナイは川を意味し
山と山の間を流れる川という意味が
地名の由来となりました。
雷電宮
中世の時代の1190年
源頼朝によって滅ぼされた
奥州藤原氏の朗党、大河兼任が
鎌倉幕府に反旗をひるがえすと
平内町を含む、東津軽郡と青森一帯で
幕府軍と戦闘に及んだ歴史がありました
こちらの雷電宮は807年
坂上田村麻呂が創建したと伝っており
歴代の津軽藩主や幕府の巡検使や
松前藩主も参拝に訪れ、
社地にあります浅所海岸には
毎年晩秋から多くの白鳥が飛来し
小湊のハクチョウおよびその渡来地として
国特別天然記念物に指定されています。
福館城跡
鎌倉期に地頭である
津軽安東氏が統治しておりましたが
南北朝時代の動乱の最中、
安東氏は南部氏との戦いに破れ
以降南部氏が津軽一帯を
治める事となります。
元亀~天正年間(1570年~1592年)
南部氏一族である七戸隼人が福館に城を構え
平内一帯を統治を行いましたが
独立を目指す津軽為信の外ヶ浜討伐の際、
軍門に降り津軽領となりました。
福館城は小湊川を天然の堀と見立てた山城で
お城の遺構は殆ど残っておりませんが
城主七戸隼人のお墓が残されております。
津軽為信の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです。
ご家中のマツ
江戸時代になりますと
江戸まで結ぶ主要街道、
奥州街道の宿場町が小湊地区に置かれ
松前藩の参勤交代や多くの人々の往来で
栄えた歴史を持っており小湊地区を歩きますと
当時街道沿いに植林された松林があり
宿場町の名残が残されております。
藩境塚
津軽藩と南部藩が確立しますが
元々は津軽地方は南部氏の領土だった為、
南部氏と津軽氏の間には確執が残り
藩境周辺では紛争が絶える事は無く、
戊辰戦争の際は新政府軍と幕府軍に分かれ
野辺地において両藩の戦いが起こりました。
こちらの藩境塚は江戸まで結ぶ
主要街道であった奥州街道沿いに
津軽藩と南部藩の境界に
築かれたものであります
平内代官所跡地
1656年
津軽藩三代目藩主津軽信義の弟、
信英は黒石、平内の領地を授かり
黒石藩を立藩すると、
中世の館跡、小湊館があった場所に
黒石藩の飛地として平内代官所が置かれ
明治時代まで統治が行われました。
黒石藩の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています。
椿神社
夏泊半島にあります椿神社。
横峯嘉兵衛とお玉の悲恋伝説が残されており
紀行文で有名な菅江真澄も
この地に訪れました。
近くにあります椿山は5月上旬から6月にかけ
色艶やかな真紅の椿の花が咲き乱れ
ツバキ自生北限地帯として
国の特別天然記念物に指定されています。
平内町特産のホタテ
高橋竹山の碑
夏泊半島
現在平内町では
ホタテの養殖が盛んに行われており、
ホタテを使ったご当地グルメで
町おこしが行われており、
また津軽三味線を世に広めた第一人者、
高橋竹山は平内町の出身で
まちの郷土資料館では高橋竹山の
足跡を辿る展示物が展示されております
夏泊半島の綺麗の海と
とても魅力溢れる観光地がありますので
ぜひ平内町に訪れてみてください
以上
平内町の歴史と史跡のご紹介でした。
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