KABUO原付CUBで激走。山形東北歴史・史跡・グルメ巡りの旅(時々海外も)

故郷山形を中心に東北各地の歴史や史跡、グルメなんかを読者の方々に詳しくご紹介出来ればと思います。

平川市 大光寺城の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

2019年青森県津軽地方の

歴史と史跡を巡る旅を行いました。

 

今回は、平川市にありました古城、

大光寺城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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大光寺城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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大光寺城趾

 

青森県平川市にあります大光寺城趾。

その歴史ですが1217年、

鎌倉御家人でありました

平広忠が平賀郡に入部し曽我氏と名乗り

大光寺の本家と岩舘の分家に分かれ

平賀郡一帯を統治しました

 

大光寺城は築城時代によって

古館、小館、五日市館と別れており

こちらは新城跡と呼ばれております

 

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持寄城跡

 

 

しかし1333年鎌倉幕府が滅亡すると

北条一族の安達高景と名越時如が

大光寺城へと逃れ匿われますが

南北朝時代の動乱最中、

曽我氏本家と分家の間で北朝、南朝と別れ

北朝の幕府側に付いた曽我氏本家と

朝廷の命を受けた南朝派の岩舘曽我氏とで

同族同士で争う事となり

1334年、大光寺合戦に至ります。

 

その後大光寺城は攻略され

弘前市相馬地区にあります

持寄城に立て籠りましたが奮戦虚しく

北条一族は滅亡し岩舘曽我氏は

所領を安堵されるのでありました。

 

持寄城跡を紹介した

弘前市相馬地区の歴史と史跡は

こちらで紹介しています。

www.yamagatakabuo.online

 

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大光寺城趾案内図

 

しかし与えられた領土に不満を持った

岩舘曽我氏の曽我貞光は津軽安東氏と共に

北朝派へと走ると根城を本拠地にする

南朝派である南部氏と交戦する事となり

曽我氏は滅亡、津軽安東氏は

秋田へと退却すると代わって

南部氏が大光寺城を治める事となります。

 

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六羽川合戦場跡地

 

南部氏の配下であります

滝本重清が入城すると

周辺地域に多くの支城を築城し

津軽三大名と呼ばれるほど

大きな勢力を誇りましたが、

 

1582年、

南部氏の家督争いが始まると混乱の最中、

南部氏配下であった津軽為信が

津軽地方の独立を目指し

南部氏配下の武将を次々と攻略すると

大光寺城も落城する事となりました。

 

滝本重清は南部へと逃れると

秋田檜山城主、安東愛季の協力の元、

旧領を奪還するため出陣し

平川市にあります六羽川の畔で

戦いに及びますが敗走を喫してしまし

以後、大光寺城は津軽為信の支城として

江戸時代を迎えるのでした。

 

六羽川合戦の歴史の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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誓願寺の鶴亀門

 

その後、津軽為信の娘婿である

津軽建広が城主となりますが

 

1607年、

津軽為信の長男信建が死去すると

信建の嫡男の熊千代に家督を継がせるか

津軽為信の次男である信枚に継がせるかを争う

津軽騒動が起こると建広は熊千代派となり

江戸幕府に直訴を試みるも願い叶わず、

信枚が当主になった後、熊千代派の粛清が始まり

大光寺城で立て籠りますが

鎮圧されてしまうのでした。

 

その後、1610年

弘前城の築城に伴い大光寺城は破却されると

追手門は弘前城の北門、亀甲門へと移され

また弘前市にあります誓願寺の亀鶴門も

大光寺城のものを移転したと

お寺の伝承に伝わっております。

 

以上

大光寺城の歴史と史跡の

ご紹介でした。

 

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