どーもKABUOです。
2019年、青森県津軽地方を
原付CUBで巡って来ました。
今回ご紹介しますのは、
津軽為信と檜山安東氏が争った
六羽川合戦の歴史と史跡をご紹介します。
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六羽川合戦の歴史と史跡のご紹介!⚔️
大光寺城趾
まずは六羽川合戦に至った経緯から
ご紹介します。
1579年
津軽統一を目指す津軽為信は
策略を練り石川城を手始めに
浪岡城主、浪岡顕村、
大光寺城、滝本重行等、
南部氏配下であった有力国人を攻め立て
各居城を攻略して行くのであります。
その際、乳井城主、乳井建清は、
父、玄蕃を滝本重清に暗殺された事から
父の仇討ちも兼ねて為信の配下に加わり、
大光寺城を攻め落としたのでありました
そして浪岡氏の一族は顕村の婚姻関係であった
檜山城城主安東愛季を便り
滝本重行と共に落ち延びます
乳井茶臼館跡
浪岡城の攻略に伴い
津軽為信と安東愛季の間に亀裂が生じると
安東氏配下である比山六郎、比山七郎の他に
大館城主、浅利勝頼と滝本重行、
浪岡一族、北畠顕則の連合軍と組み
乳井建清の留守を狙い
居城、乳井城と乳井茶臼館を
攻め立て攻略します。
六羽川
そして平川市を流れる六羽川の畔で
両軍が激突すると為信は劣勢に立たされますが
配下の田中太郎五郎が
為信の身代わりとなり戦死すると
為信を討ち取ったと油断した
連合軍は隙をつかれ大将であった
比山六郎が討死する事となり
敗走する事となりました。
田中太郎五郎戦死之跡
その後、身代わりとなって討死した
田中太郎五郎の嫡子宗右衛門に
100石加増し津軽家家臣として
厚遇しました
こちらの碑は田中太郎五郎の子孫である
元外交官佐藤尚武によって
1959年に建立された物で
当時この場所で激しい戦が行われた事を
物語っております。
以上
六羽川合戦の歴史と史跡のご紹介でした。
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