どーもKABUOです。
マレーシアの首都、
クアラルンプールを旅行しました。
観光スポットを巡りながら
史跡巡りも行いましたので
クアラルンプールの歴史と供に
ご紹介します。
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クアラルンプールの歴史と史跡をご紹介!🇲🇾
クアラルンプールの始まりですが
1857年、スズ鉱山の採掘場所として
多くの福建省を中心とした
中国人移民者が集まって形成されました。
採掘の最中、泥で汚れた鉱石を
中心地を流れるクラン川とゴンバック川で
洗い流した事から
「泥(lumpur)が合流する場所(kuala)」と呼ばれ
クアラルンプールの名前の由来となります。
写真のこちらが川が合流した場所で
人気の観光スポットとなっておりました。
旧クアラルンプール駅
1873年、イギリスとオランダによる
英蘭条約によって植民地交換が行われると
マレー半島一帯をイギリスが統治。
統治時代、採掘された鉱山や
プランテーションで収穫されたゴムの
採掘拠点として大いに発展していくのでした。
その為、町中を歩きますと
イギリス様式の建物が数多く残されており
写真の旧クアラルンプール駅は
1886年、採掘された鉱山やゴムを運ぶ為に
鉄道開発された際に開業された。
歴史的にも貴重な建造物です。
バトゥ洞窟
また統治を行った際、
植民地でありましたインドから
多くのタミル系インド人が労働者として
多く連れて来られ経緯があった事から
マレー人、華人、インド人と
多民族国家社会が形成されて行くことなり
モスクの他、中華系寺院やヒンドゥー教寺院も
町中で見ることが出来ます。
国家記念碑
1941年、第二次世界大戦が開戦すると、
日本とアメリカと連合軍との戦争が始まり
石油を求めてインドネシアを制圧。
そしてマレー半島へと上陸すると
クアラルンプール、シンガポールの
イギリス軍を破り統治を行いますが
1945年の敗戦により
再びイギリスの統治へとなりますす
しかしイギリスの軍政に
マレー人の反発が高まり1948年、
イギリス人がマレー人の地位を認めた
マラヤ連邦が発足します。
その後、
共産党ゲリラとの12年間の内戦へて
1957年、独立を果たす事となりました
写真の国家記念碑は
日本統治時代と共産党ゲリラとの内戦で
戦い死んだ人々に捧げる為に建造された
記念碑になります。
ムルデカ・スクエア(独立広場)
その後、1963年
シンガポール、サバ、サラワクを加えた
マレーシア連邦が結成されますが
イギリスがもたらした民族格差を是正する為、
マレー人優遇政策を行うのですが
多くの華人が住むシンガポールでは反発を呼び
大規模な暴動へと発展すると
1965年にシンガポールを分離し
現在のマレーシアへとなりました。
こちらのムルデカ・スクエアで
独立宣言が行われ毎年8月31日に
独立記念日の式典が行われております。
ぺトロナス・ツインタワー
その後、民族対立が続きますが、
貧困層が多い農村地帯のマレー人を救うべく
マレー人優遇を行うプミプトラ政策を行い、
また1981年から首相を勤めた
マティールによって
経済政策が推し進められると
石油や豊富な天然資源も相まって
急成長を遂げる事となりました。
植民地時代の歴史的建造物は
見ごたえがありますので
クアラルンプールに
ぜひ観光に訪れてみてください
以上
クアラルンプールの歴史と史跡の
ご紹介でした。
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