どーもKABUOです。
2020年1月、
マレーシアとシンガポールを
観光巡りしました。
今回はマレーシアにあります
世界遺産でもあります
古い都があったマラッカの
歴史と史跡をご紹介します。
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マラッカの歴史と史跡をご紹介!🇲🇾
マラッカ・スルタン・パレス
世界遺産に登録されているマラッカ
その歴史ですが14世紀末、
インドネシア、ジャワ島にありました
マジャパヒト王国で内戦が始まると、
スマトラ島南部にありました
シュリーヴィジャヤ王国の王族
パラメスワラは独立を計画しますが
失敗終わります。
その後、マジャパヒト王国に
占領されるとマラッカに逃れ、
マラッカ王国を建国したのが
歴史の始りだとされております。
マラッカの由来ですがパラメスワラは
原住民にこの土地の名前を聞いた所,
原住民には土地に名前を付ける習慣が無く
王様はこの周辺にある樹木の名前を
聞いているのではないかと勘違いし、
マラッカと答えたところ、
パラメスワラはたいそう気に入り
そのまま王国の名前となったのが
由来となります。
マラッカスルタンパレスは
古い王宮を再現した博物館となっており
マラッカ王国の古い歴史を
学ぶことが出来ました。
鄭和像
マラッカ王国を建国しましたが、
北にはタイのアユタヤの王朝
南にはインドネシアのマジャパヒト王国と
強国に挟まれておりいつ攻め込まれても
おかしくはない状態でありましたが、
1405年、
明の永楽帝の命によって
鄭和が艦隊を率いてマラッカに寄港すると、
朝貢貿易を通じ明との同盟関係を
深める事となります。
カンポン・フル・モスク
国内の安定を図ると地理を行かし、
マラッカ海峡の交易が行われると
ペルシャ、アラブ、インドの
イスラム教徒の影響を受け、
15世紀後半には完全にイスラム化し
東南アジアにおける海上貿易と
イスラム教の中心地として
繁栄を極める事となりました。
こちらのカンポンフルモスクは
1728年に建てられた
マレーシア最古のモスクだと
言われております。
チェン・フン・テン寺院
明との同盟関係が結ばれ
明から多くの中国人が渡ってくると、
中国人の男性とマレー人の女性の結婚が進み
中華系とマレー文化が融合した
ババ・ニョニャ文化の華を開く事となり、
マラッカの町を歩くと中華系の催した
建物や寺院が多く残されておりました。
こちらのチェンフンテン寺院は
マレーシア最古の中国寺院で
艶やかでとても見ごたえがあります。
ブキッ・チナ
こちらのブキッ・チナは
マラッカ王国に嫁いだ皇女ハン・リ・ーポーと
侍女の為に与えられた移住地だった場所で
現在ではマレーシア最古ので中国以外で最大の
華人墓地となっております。
ポー・サン・テン寺院
スルタンの井戸
また近くには明からの使節派遣を記念した
ポー・サン・テン寺院やハン・リー・ポーが
造らせたものといわれている
スルタンの井戸が残されておりました。
セント・ポール教会
繁栄を極めたマラッカ王国でしたが、
1511年、
交易の独占を目論んだポルトガルは
インド提督アルフォンソ・デ ・アルブケルケを
派遣し侵攻を開始するとマラッカ王家は
ジョホールなどに逃れ
マラッカ王国は滅亡してしまいました。
その後、王宮があったセントポールの丘に
ポルトガル式の教会が建設される事となり
西洋の宣教師達の活動拠点となり
フランシスコ・ザビエルも
日本の種子島に来航した歴史があります。
サンチャゴ砦
マラッカ王国を滅ぼしたポルトガルでしたが
その後、イスラム商人の弾圧を行うと、
多くの商人はマラッカを迂回し
交易を行うようになり
徐々に衰退する事となると、
1641年、
マラッカ王家の流れを組む
ジョホール王国とオランダが組み
ポルトガルを撃退するとオランダは
マラッカを統治する事となりました。
こちらのサンチャゴ砦は
1511年にオランダとの戦いに
備えるためにポルトガル軍によって造られた
大砲もある砦跡になります。
スタダイス
その後1842年、
イギリスとオランダによる領土交換、
英蘭条約によってマラッカ及び
マレー半島はイギリス領となりますが
交易の中心はペナンやシンガポールへと移され
マラッカの栄光は過去の物となりました。
写真のスタダイスは1650年、
オランダ総督らが居住する為に建てられ
現在ではマラッカを代表する
シンボル的存在となっております。
観光客が多く集まり賑わいを見せており
マレー、中華、西洋と多くの文化が
入り交じったマラッカは
世界遺産と呼ぶに相応しく
見所が多い所でしたので
ぜひ訪れてみてください。
以上
マラッカの歴史と史跡の
ご紹介でした。
こちらがアクセス場所です。
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