どーもKABUOです。
秋田県能代市二ツ井地区の
歴史と史跡の調査を行いましたので
同地区の観光スポットとともに
ご紹介します。
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二ツ井地区の歴史と史跡のご紹介!
二ツ井駅
能代市二ツ井地区。その歴史ですが
1876年、比井野村と薄井村が合併し
二ツ井村が発足。
その後町制を施行し二ツ井町となります。
1955年、
荷上場、富根、種梅、響の各村々を
編入し新生二ツ井町を発足しますが
2006年
平成の大合併が各市町村で行われると
二ツ井町は能代市に編入され
現在に至ります。
七座神社
米代川をはさんで七座山の七つの座を
見渡せる場所にあります七座神社。
658年、阿倍比羅夫が蝦夷征伐のため
この地に訪れた際に、戦勝祈願のために
建立したといわれており
古くから七座山とともに県北一円の
信仰を集めてきた神社です。
(二ツ井町観光 協会引用)
銀杏山神社
こちらの神社も阿倍比羅夫が
蝦夷征伐のためこの地に訪れた際に、
戦勝祈願のために建立したといわれており
江戸時代には秋田の佐竹氏の
奥方も参拝に訪れた事から
佐竹家の家紋を付けることを許され
多くの参拝者が訪れました、
境内にあります三本の大銀杏は
阿倍比羅夫の時代に植えられたとされ
夫婦銀杏とも呼ばれ幹のコブが
垂れていることから乳不足の女性が
この樹のまわりを一気に五周して
願をかければ乳が出ると言われ
秋には見事黄色に染まった風景が見られる
絶景スポットです。
鎧神社
兜神社
中世の時代。
源頼朝による奥州合戦で破れた
藤原秦衡が蝦夷地に逃れようと
この二ツ井地区まで落ち延びた際
疲労困憊だった為、鎧と兜を脱ぎ捨て
この地に置いていったとされ
その後、家臣の河田次郎の裏切りによって
自害に追い込まれたことを
憐れんだ村人達によって鎧と兜を社に
祀ったと伝わっております。
梅林寺
鎌倉時代、
源頼朝の命によって浅利氏が入部すると
その家臣、額田氏が荷上場にありました
館平城を中心に二ツ井地区を
統治する事なります。
この梅林寺は1605年に開基されますが
元々は天台宗のお寺で高岩山の麓にあったと
伝えられており額田氏の他に浅利氏のお墓が
境内に建立されており、
その後、
浅利氏は戦が続き国力は落とすと
檜山城主安藤氏によって滅ぼされ
二ツ井地区も安藤氏の統治化に
置かれることとなりました。
浅利氏の歴史と史跡の
紹介の記事はこちらです
七座山
江戸時代。
関ヶ原の合戦の後、
秋田県に常陸の国より佐竹氏が入部すると
久保田藩を立藩し秋田県全域を統治すると
二ツ井地区にも津軽から大館、久保田を通る
街道が整備されると荷上場、小繁、飛根地区に
宿場町が形成され多くの人々が往来したと
記録に残されております。
七座山は元々修験道の修行の場として栄え
佐竹氏が入部すると藩にとって最も大切な
直接管理運営する山林として保護され
伐採された木々は荷上場で積まれ
加護山で採掘された銅とともに
米代川を通り秋田城下に運ばれました
岩関神社
岩堰用水路を作った梅津政景を祀った
岩関神社。
佐竹氏家臣として知行地を与えられた政景は
水捌けの悪い比井野、薄井地区に
岩堰用水路を作り耕地開拓に勤め
村人に感謝された事から
岩関神社に祀られており
現在でも用水路は使用され
神社では盛大なお祭りが行われています。
清徳寺 肥前藩戦没者供養塔
1868年
戊辰戦争が始まりますと
新政府軍に組み入れした久保田藩は
旧幕府軍に付いた奥羽諸国と
激しい戦闘が行われた歴史を持ち
大館城を攻略した南部藩は
二ツ井地区まで進軍を繰り広げ
現在のきみまち阪周辺で交戦となりますが
新政府軍の近代兵器よって南部藩は敗北し
敗走しました。
こちらの清徳寺は
梅津政景によって開基されたお寺で
境内には戊辰戦争で亡くなった
新政府軍側であった肥前佐賀藩士5名と
肥前小城藩士3名のお墓が建立されています。
きみまち阪
江戸時代の頃まできみまち阪は
険しい山に囲まれ 郭公坂、馬上坂、畜生坂
などと呼ばれ余程の事が無い限り人は通らず
もっぱら荷上場から小繁まで舟を使い
往来するなど難所として知られていました。
明治時代。
明治天皇の東北巡幸が行われると
山の先端の切り通して緩やかな
坂道が作られ藤琴川に橋が架けられ事なり
この地を訪れた明治天皇がその美しさに感動し
傒后阪(きみまちざか)という
名称をつけたとされます。
現在公園として整備され
桜にツツジ、紅葉と季節の彩りが楽しめ
また恋人の聖地として多くの
観光客が訪れております。
以上
二ツ井地区の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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