どーもKABUOです。
秋田県能代市にあります城跡、
檜山城の歴史と史跡の
調査を行いましたのでお城の様子と
周辺地域の史跡をご紹介します。
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檜山城の歴史と史跡のご紹介!
檜山安東氏城館跡
中世に築城された檜山城。
檜山城の歴史ですが
1456年、安東政季によって
築城したと記録に残されております。
安東氏は津軽地方を拠点に
蝦夷や中国大陸、日本海沿いにかけ
貿易を行い強大な勢力を誇った豪族でした。
しかし家中の内紛が絶えず国力が低下すると
安東氏は津軽地方を統治する宗家と
秋田地方に下った分家へと分裂します。
その後、津軽地方に残った津軽安東氏は
南部氏との抗争に破れ津軽を放棄し
蝦夷へ逃れた後、 分家の湊安東氏を頼り
能代市檜山地区に移住すると
檜山安東氏と呼ばれるようになりました。
檜山城主 安東愛季
檜山安東氏が最盛期を迎えたのが
安東愛季の時代です。
愛季は長く分裂した檜山、湊安藤氏を統一し
比内地方を治めた浅利氏との戦を征し
能代市、八峰町から大館市比内地方まで
勢力を広げ知勇にたけた人物でした。
檜山崇徳館
安東愛季について
ルイス・フロイトの書簡によると
「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す。(中略)蝦夷に近きゲスエン地方に秋田という大市あり。彼等は多数此市に来りて貿易し、秋田人も亦時々蝦夷に赴く」
(Wikipedia引用)
との記述が残されており
斗星の北天に在るにさも似たりと
評されました
檜山地区にあります檜山崇徳館では
檜山城と檜山安東氏にまつわる
展示物が並べられ歴史を学ぶ事が出来ます。
母体八幡神社
こちらの神社は
坂上田村麻呂によって創建され
檜山城の鬼門にあたり
湊安東氏よ併合した安東愛季が
武運長久を願って再建したと
伝わっております
檜山城本丸跡
その後、安藤愛季の息子、実季が跡を継ぐと
湊安東氏との間に亀裂が生じ内紛が起こると
劣勢に陥り約5ヶ月以上に渡り檜山城で
籠城戦を展開し味方の援軍もあり
見事内紛を治めると実季は湊安東氏の
居城であった湊城に居住を移し
檜山城は家臣の大高康澄の代官地となりました
多賀谷氏居館跡
多宝院
1600年、関ヶ原の合戦の後、
安東実季は常陸の国へと転封になると
かわりに佐竹義宣が入部すると
久保田藩を立藩し秋田県内を統治します。
佐竹氏は小場義成を檜山城の城代としますが
1610年、小場義成りを大館城に入城すると
かわりに多賀谷宣家を檜山城主に任命、
檜山一万石を受けましたが
1620年、江戸幕府の一国一城の命によって
廃城となりました
こちらの写真は廃城たなった後に
多賀谷氏の居館になった跡地と
常陸の国からわざわざ呼び寄せ創建させた
同氏の菩提寺となった多宝院になります。
国清寺跡
1504年
安東忠季によって創建された
安東氏の菩提寺となったお寺跡。
安東氏の常陸の国の転封にともない
廃寺の運命を辿りましたが
現在も史跡跡として名残が残されております
浄明寺
安東氏一族によって
創建されたと伝わる浄明寺。
山門は檜山城から払い下げられ
城下がりの門と言われており
境内には安東愛季によって
謀殺された浅利勝頼の首を葬ったとされる
首塚が残されておりました
檜山追分旧羽州街道松並木
その後、秋田久保田城と津軽弘前城を
結ぶ羽州街道が整備されると
檜山地区には宿場町が形成され
人々の往来が増え栄えたと記録されており
当時の名残を残す街道の松並木が
現在でも残されておりました
檜山茶
檜山納豆
現在檜山地区では
室町時代から製法される檜山納豆や
日本で最も北で栽培される北限の檜山茶が
栽培されており城下町の風情が残る
町として注目を浴びており
檜山城を含む、国清寺跡、
大館跡、茶臼館跡は
国指定史跡として登録されている
文化遺産となっております
檜山城と一緒に檜山地区の
観光にぜひ行ってみてください
以上
檜山城の歴史と史跡のご紹介でした
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