どーもKABUOです。
秋田県大館市比内地区の
史跡調査を行いましたので
同地区の歴史をご紹介します。
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比内地区の歴史と史跡のご紹介!
扇田小学校
秋田県大館市比内地区。
比内地区の歴史ですが1955年
扇田町、東館村、西館村、大葛村が
合併し比内町が発足します。
その後2005年、
平成の大合併により田代町とともに
大館市に編入されますが
田代町の町名が消滅したのに対し
比内町は大館市の大字名にとして残り
現在も地名が残されております。
扇田駅
比内という地名の由来ですが
アイヌ語の「ピ・ナイ」(小石が多い沢)
または「ピン・ナイ」(細く深い谷川)に
由来するといわれており、
比内が初めて文献に登場するのが
中世の時代の878年、
朝廷と蝦夷の間に起こった
元慶の乱の頃であったとされ
秋田城や野代営を攻撃した賊地として
火内村という村名が
比内の初出であるとされております。
錦神社
1189年、奥州合戦の最中、
源頼朝率いる軍勢に破れた
奥州藤原氏四代目秦衡は
蝦夷地に逃れようと
にえの柵(現在の仁井田)に住む
家臣河田次郎を頼って
この地に立ち寄った所、
恩賞に目が眩んだ河田次郎の手により
敵の大群が攻め寄せたと見せ掛け
切腹するように仕向け
秦衡の首を跳ねたとされております
その後、首の無い秦衡の死体は
里人によって錦の直垂に大事に包まれ
埋葬されこのお墓がにしき様と
呼ばれるようになり錦神社となりました
その後、河田次郎は秦衡の首を
頼朝に献上するのですが
主君殺しを戒められ
処刑されてしまうのでした。
西木戸神社
こちらの西木戸神社は
秦衡の後を追いこの地に辿り着いた
秦衡夫人は秦衡の死を知り嘆き悲しみ
3人の子供を道連れに自害しました。
里人はこれを哀れみ、
ここに夫人のために五輪の塔を建て
霊魂を慰めたのがこちらの神社の
始まりだとされています。
大日神社(十狐城跡)
中世の時代、鎌倉時代に入りますと
源頼朝の命により檀ノ浦の戦いので
武功をあげた浅利氏一族を
この比内地方へ地頭とし拝領され
その後、浅利則頼の時代に
十狐城を築き戦国大名として
最盛期を迎えますが、
津軽氏、南部氏、檜山安東氏と
強国に囲まれる中、
次第に勢力が弱体してしまい
檜山安東氏の策略によって
当主を暗殺され浅利氏は滅亡し
比内地方は檜山安東によって
統治されてしまいました。
戦国大名浅利氏の歴史は
こちらの記事で紹介しています。
長岐邸武家門
江戸時代に入りますと
安東氏の常陸の国に転封にしたがい
秋田県に佐竹氏が入部し久保田藩を立藩。
そして小場義成を大館城に入城させ
比内地方の新たな統治が始まり、
扇田、独鈷、大葛の村々に
宿駅が設けられる事となります
こちらの長岐邸武家門は
扇田の地主として勢力を持っていた
長岐家が秋田市の旧佐竹侯別邸の
門を模して建造された物です
大館城の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
米代川
この頃から大葛鉱山の採掘や
秋田杉の開発に力を入れ、
ここ扇田を流れる米代川で
荷物の集散が行われ能代港を通り
江戸まで献上される事となると
荷揚げの人夫や商人、
街道を通る人々の往来で
大いに栄える事となりました。
安藤昌益之墓(温泉寺)
江戸時代中期の思想家で
大館市仁井田出身の安藤昌益
当時の日本は封建社会でしたが
その身分制度を否定し農業を中心とする
平等な社会を理想を説いた方で
秋田県指定史跡として登録されています。
扇田神明社
近代の時代1868年に、
戊辰戦争が起こりますと
秋田久保田藩は新政府軍に与し
奥羽諸藩と戦うことになり、
南部藩によって十二所を制圧されると
この扇田神明社でも戦いが及びます
神明社畷の戦いと呼ばれ
この戦闘で秋田藩の手伝いをしていた
山城みよが流れ弾に当たって死亡、
その後、女性で初めてとなる
靖国神社合祀の女性第一号となりました。
忠犬ハチ公生誕の地
現在比内地区では稲作の他に
ホップやとんぶりの栽培や
日本三大地鶏のひとつである
比内地鶏の飼育も盛んに行われおり
また忠犬ハチ公の生誕の地としても
知られております。
大館市に観光に訪れましたら
ぜひ比内町にも遊びに
訪れてみてください(´▽`)
以上
比内地区の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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