どーもKABUOです。
清水城の散策を行いましたので
歴史と史跡の様子をご紹介します。
清水城の歴史と史跡をご紹介!
清水城址入り口
清水城までのアクセスですが
県道30号線を北に向かいますと
こちらの看板が設置されおり、
車場も完備されてますので
簡単に散策が可能となっております。
元館跡
清水城の歴史ですが1476年
山形城主最上氏の命により
同じ一門でありました
成沢満久を大蔵村清水に遣わし
最上地方勢力拡大の拠点としました。
当初、大蔵村白須賀に館を構えますが
1478年頃、
清水城を現在の場所に築き
名前を地名を取り清水氏と名乗り
大蔵村一帯を統治したのが
清水城の始まりだとされます。
最上氏が満久を遣わしたのは
最上川舟運をこの地で掌握し
内陸経済を統制する
意図があったとされ、
その後、清水河岸が開発されると
山形県内陸へと物資を運ぶための
重要な中継地点として機能しました。
夏山塚
その頃、庄内の武藤氏、
秋田仙北の小野寺氏が
最上地方にひしめき合い
いずれも勢力拡大を図り
覇を競い合います。
1563年
庄内地方を掌握した武藤氏の侵攻により
清水氏5代目当主、清水義高は
鳥打場で迎え撃ち勇戦奮闘し
清水城は事なきを得ましたが
義高は敵の流れ矢にあたり
戦死してしまいました。
写真の夏山塚は
義高の法名に由来しており
義高の二百回忌供養の際、
かつての鳥打場古戦場に村人が偲び
戦死の地に建立したものとなります。
大手門跡
外堀跡
その後6代城主
清水義氏が跡を継ぐと
宗家である最上氏に接近し
娘である清水姫を側室として嫁がせ
関係強化をはかります。
また義光側も三男義親を
跡継ぎとして養子として送り込み
清水家の掌握をはかり庄内侵攻への
足掛かりとするのでありました。
修善院跡と笠松
義親はその後、清水義親と名乗り
清水城を中心に城下町の整備を行い
また関ヶ原の合戦の後、
上杉軍の残党が残る庄内地方へ
総大将として攻め込み武功をあげ
多大に活躍。
しかし幼い時、豊臣家に人質に出され
豊臣秀頼との結び付くがあった事から
徳川側から警戒されていたことから
後に悲劇を生む事となります。
写真の修善院は歴代清水城主の
祈願所でありましたお寺の跡地とされ
城下町があった
形跡が残されていました。
興源寺
1614年
一栗兵部の反乱が起こりますと
その背後には豊臣方と内通する
義親がいたと嫌疑をかけられます。
大阪冬の陣直前、異母兄である
山形城主最上家親の命により、
清水城を急襲を受け攻め立てられ、
清水城は落城し義親は嫡男と共に自害、
清水氏は滅亡し城は廃城となりました
写真のこちらは清水城から程近い
興源寺さんにあります
清水城歴代城主のお墓で
清水義親もこちらに葬られたと
伝わっております。
本丸跡
本丸跡からは最上川の絶景と
大蔵村の村内が見下ろせる
おすすめスポット
となっておりますので
大蔵村にお越しの際は
ぜひこちらの清水城にも
お越しください
以上
清水城の歴史と史跡の
ご紹介でした。
新庄市・最上エリア
城郭・山城・館跡
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