どーもKABUOです。
山形県舟形町を中心に
歴史や史跡そして観光スポットや
特産品をご紹介していきます。
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舟形町の歴史と史跡をご紹介!
舟形町役場
1954年
舟形村と堀内村が合併し
成立されたのが舟形町となります。
舟形という名前の由来は
はっきりと分かっておりませんが、
川船が転覆して丘に化したと
伝えられる舟形の丘に由来する説や、
フナの形をした石が出たことにより
鮒方と呼ばれたことから
舟形に転じたとの説が
有力視されております。
(角川日本地名大事典参考)
西ノ前遺跡
縄文時代の頃から
同町を流れる小国川沿いに集落が
形成された形跡が見つかっており
調査を行った所、多数の出土品や
土偶が発掘されました。
その中のひとつ縄文の女神は
保存状態が特に良く
しっかりと形状をとどめている事から
国宝指定されており山形県立博物館に
大切に保管され展示されています。
猿羽根楯跡(さばねたて)
舟形町が初めて文献に登場するのが
奈良時代の頃でした。
蝦夷討伐を目指す朝廷の命により
大野東人が訪れたと記録されており、
当時、宮城県にあります
鎮守府多賀城から笹谷峠を越え
秋田県内にあります秋田城に向かう際、
避翼(さるはね)(舟形町富田地区)を
通った記録が残されており、
古代の時代から主要軍道として
重宝された歴史があります
(避翼の場所は諸説あり)
その後室町時代に入りますと
奥州から入った源義高によって
猿羽根楯が築かれ一帯を統治しますが
最上義光のによって攻め滅ぼされ、
義光の支配地域となりました。
猿羽根楯の記事は
こちらで記載しております。
猿羽根地蔵尊
江戸時代、1622年
最上家の改易により
戸沢氏が最上地方に入部すると
新庄藩を立藩し以来幕末まで
舟形町一帯を治めます。
舟形地区は羽州街道の宿場町が置かれ
秋田。津軽城主の参勤交代や
出羽三山に参拝に向かう行者さん
宮城県大崎市鳴子町を結ぶ
鳴子街道の起点として
多くの人々が往来しました。
猿羽根地山蔵尊は
舟形町にあります猿羽根峠に
祀られたお地蔵様で
新庄藩と尾花沢の藩境に
悪い霊気が侵入する事を防ぐために
祀られたのが始まりだとされます
猿羽根山地蔵尊の
詳しい説明の記事はこちらです。
念仏の松
こちらの念仏の松は古来より
出羽三山に参拝に訪れる
行者さんが新庄越えを通り
この松の下で三山の方角に向かって
唱えたということから名付けられ
舟形町の天然記念物に
指定されています
福昌寺山門格天井絵
こちらは福昌寺山門に
晟光と耕古の親子によって
描かれた天井絵でとても美しく
舟形町の有形文化財に
指定されています
祈祷塚
舟形町富田地区にあります
町指定文化財、祈祷塚。
小国川と最上川の恵みによって
肥沃な土地でありましたが
度重なる川の洪水に悩まされ続け、
富田村羽黒派修験不動院に話をした。
不動院は葉山から
一本の杉の苗木を持ってきて、
ここに壇を築きその杉苗木を植え、
これより東方の水田に洪水の被害が
及ばないように祈祷した
史跡跡になります
戊辰戦争官軍之墓
幕末の頃。
舟形町は戊辰戦争の
主戦場の1つでありました。
秋田から進撃した新政府軍は
庄内、陸奥、仙台、山形などの
奥州越列藩同盟軍を破り
新庄城に進撃を開始します。
舟形で体勢を建て直した同盟軍は
庄内軍を主力として反撃に転じ
舟形口で激しい戦いが行われ
急襲を受けた政府軍は大敗しました
その際、
新庄藩士6名、長州藩士1名が
戦死しうち三名をこちらのお墓に
埋葬されたと記録が残されております
舟形駅
明治時代になりますと
汽車や交通の発達により
豊富な埋蔵量を誇るが亜炭が採掘され
国内シェアの半分に達し
町は繁栄しましたが
昭和の頃
戦後のエネルギー転換により
亜炭産業が衰退したという
歴史がありました
ふながた若鮎まつり
現在では豊かな自然環境を行かし
地域ブランド、マッシュルームの栽培や
小国川で漁獲される松原鮎の
加工販売が行われており
毎年9月初頭に舟形町では
ふながた若鮎まつりが開催され
多くの観光客が訪れております。
ふながた若鮎まつりの
記事はこちらです
しかし2015年
小国ダムの工事着工が行われ
今後小国川の生態系に影響が
及ぶことが考えられており
山形県民として
チェックしなければならない
義務があるのではないかと
思っております。
以上、
舟形町の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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