どーもKABUOです。
2019年7月
山形市中野地区にあります
中野城の歴史と史跡を調査しました。
大郷小学校の敷地内にあります
こちらのお城跡は
山形城の支城として築城され
歴代の山形城主にも抜擢された
最上家の分家にあたる一族になります
また最上義光の時代には父義守と
骨肉の家督争いを演じた
天正最上の乱が起こった場所でした。
今回は中野城の歴史と天正最上の乱の
経緯を分かりやすくご紹介出来ればと
思います
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中野城と天正最上の乱をご紹介!
中野城址
中野城は中世における山形城の
支城として山形城3代最上義直の
次男満基が15世紀初めに築城した
連郭式の平城になります
中野城の須川を挟んだ北には
寒河江を治める寒河江大江が支配し
戦略上のみならず
酒田港から舟町に荷揚げされる
荷物の往来から経済上、
水陸の交通上と重要な拠点であり
また最上家6代当主最上義秋に
子供がいなかった為、中野城から
中野満氏が最上家を継ぐ等
庶流として密接な関係を
宗家最上家と結んでおりました。
雲祥寺
しかし9代当主最上義定の時代に
伊達稙宗が山形に侵攻し
山形城の支城長谷堂城が落とされると
伊達氏の支配下に入ってしまい
最上家勢力が衰退していきます
更に悲運が続き義定は
子供を作らないまま死去してしまい
それに目を付けた伊達稙宗が
最上家の後継者争いに
政治介入を果たし義定の弟で
中野城主義建の孫義守を
僅か2歳で山形城城主に
迎え入れますが事実上最上家は
伊達氏の傀儡と化してしまいました。
そしてこの義守の息子こそが
あの最上義光でした。
写真の中野地区にあります
雲祥寺は9代当主最上義定の
菩提寺になります。
山寺立石寺
最上義守は伊達稙宗の侵攻のおり
伊達氏に味方した山寺立石寺は
天童頼長によって焼き討ちされましたが
義守がその再建にあったとされ
また伊達氏の内紛である
天文の乱の際には戦局を見ながら
巧みに世を渡りまた自分の娘である
義姫を伊達氏に嫁がせる等
政略にとんだ人物でありました。
山形城
しかしあまり嫡男である義光とは
仲が悪かったようで、
そのかわり義光の弟である
中野義時を溺愛し
時期山形城主には義時を考えており
一時は義光は天童高擶城に
遠ざけたとこともあったそうでが
家臣、氏家定直の調停により
和解が成立し家督が義光に譲られ
弟義時は中野城主へと
抜擢される事となりました
しかし義光のやり方に難色を示した
隣国の国人衆が義守を担ぎあげ
義光の討伐を進める事となります
それが義光と義守の骨肉の争い
天正最上の乱でした。
柏木山古戦場
義守は各地の国人衆に書状を出し
娘義姫の嫁ぎ先の伊達氏とも
接触をはかり出兵を促すと、
時の当主伊達輝宗は承諾し
米沢から上山に兵を進め出陣を図ります
現在山形市
みはらしの丘周辺で両軍が激突し
伊達輝宗優勢かと思われましたが
最上義光の軍勢の粘りによって
戦いが硬直状態に陥り、
その後、谷地城主白鳥長久の仲介により
その後両軍和睦し伊達輝宗に
味方をお願いした義守は劣性に
立たされる事となりました
鳥海月山両所宮
また弟の中野義時は
山形城主になれなかった恨みから
鳥海月神社で呪詛を行ったとされ
それが義光に露見すると激怒し
中野城に夜襲をかけ義時を
自害に追い込み家督争いに
終止符を打つことになりました
宝光院
義守との争いから中野城に
権力を持たせる危険性から
影響力のある寺院を
山形城下に移し弱体化をはかり
義光は権力を掌握していくの
でありました。
こちらの宝光院も中野から
山形城下に移転され最上家改易後に
山形城の建物を移健したと
伝わっております
龍門寺 義守の菩提寺
しかし近年の研究から
中野義時の文献が少ない事から
創作上の人物だったとされており
実際に争ったのは義光と義守
親子だったとされます。
最上親子の争いの原因ですが
父義守は隣国や国人とは
婚姻関係や自立性をゆるした
ゆるやかな連合をめざしたのに対し
義光は強固な権力集中をめざした事から
権力の方向性の違いから
隣国や国人衆から反発を招き
このような事態に陥ったと
推測されております。
(伊藤清朗、最上義光参考)
最上義守のお墓
そしてその後、
義守はこちらの龍門寺で隠遁し
70歳でこの世を去り
義光死後、1622年
最上家の改易によって
中野城が廃却され廃城となりました
天正最上の乱は最上義光が
その後57万石の大名に登り詰める
ターニングポイントでしたので
中野城の歴史はとても興味深く
見ごたえがある城跡でした(´▽`)
以上
中野城と天正最上の乱でした。
また中野城のあります大郷地区の
歴史と史跡の調査をこちらの記事も
ご覧ください
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