どーもKABUOです。
山形市長谷堂にあります
山形百名山に数えられる城山。
その昔、山頂には長谷堂城と
呼ばれる強固な山城があった場所です。
長谷堂城は山形城の支城として
南陽市を結ぶ小滝街道と
上山からの侵攻を防ぐために
山形城主最上氏によって築城され
東北の関ヶ原と呼ばれた
慶長出羽合戦の際に
最上義光と直江兼続が
激しく争いを広げた
歴史的な場所になります
今回、長谷堂城と関連する
周辺地域の史跡を調査しましたので
歴史的経緯を踏まえてご紹介します。
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長谷堂城と東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の歴史と史跡をご紹介!
城山
長谷堂城は別名亀ヶ城と呼ばれ
標高220mの城山に
南の本沢川を天然の堀に見立て
自然の地形を巧みに利用した
築城された山城になります
築城された年は不明とされていますが
歴史に初めて登場したのが
1514年
山形城主、最上義定と
山形に侵攻した伊達稙宗の争いで
長谷堂城で防戦を行ったが敵わず
伊達氏に降伏したと伝えられています
その後、伊達氏から内政干渉を受ける等
最上氏の国力が削がれるますが
伊達氏の家中で争いが起こると
そのどさくさに紛れて最上氏が
国力を取り戻し伊達氏から
独立していきます。
その時代が最上義光の時代でした。
長谷堂城は現在公園整備され
駐車場が完備されており
気軽に城山を登頂する事が出来ます
こちらはお堀跡です、
公園整備化によって
当時のお城の様子がよくわかります
お城の登頂口は6つ程あり
おすすめはこちらの八幡口、
こちらから登頂しますと
効率よく長谷堂城を巡ることが出来ます
八幡神社
長谷堂城の歴史の中で
一番の激戦を演じた慶長出羽合戦
1600年
豊臣秀吉の死後、
豊臣家の家中は内部で争いが始まり
石田三成と徳川家康とで対立します
石田三成方に与した上杉家と直江兼続は
徳川家康を糾弾する直江状を家康に宛てると
上杉家を討伐する為、徳川家康は会津へ出兵。
一方は最上義光は娘である
駒姫が秀吉に処刑された為
豊臣方に深い恨みもあり徳川家康と手を組み
出羽諸国の大名を集めて山形城から
会津に攻め混む準備を行っておりました。
悲劇のお姫様、駒姫の記事はこちらです
稲荷神社
しかし
西方から三成が出兵すると
急遽家康は西方に軍を返し
関ヶ原の戦いへと突き進み、
その一報を聞いた兼続は
西方は三成に任せ北側勢力を削ぐために
山形城へと侵攻していきます
長谷堂観音
その頃、義光は
集まった出羽諸国の大名が
西方の寝返りや諸事情によって
最上勢からの離反が相次ぎ
その苦境のなか上杉勢25000と
戦わなければなりませんでした
(ちなみに最上軍は7000人と
絶望的な状態でした)
こちらは長谷堂城内にあります
最上三十三観音12番札所
長谷堂観音になります
上杉軍、最上軍の配置図
上杉軍は庄内、白鷹、上山方面と
部隊を分けて破竹の勢いで
最上軍の支城を打ち破っていき、
一報最上軍は兵力の少なさから
支城を捨て去り山形城、上山城
そして長谷堂城へと兵力を集中させる
作戦を取り持久戦へと持ち込みます
その間に嫡男である
最上義康を伊達政宗に遣わせ
援軍を要請を行い留守政景
3000の兵が援軍に到着します
富神山頂上
白鷹方面から狐古道を抜けた上杉軍本隊は
まずは畑谷城を攻め落とした後に
直接山形城へと軍を進めるため近くの
富神山で物見を行いましたが
霧が深くそれが10日間も続いた為
直接山形城を戦うのを取り止め
支城であった長谷堂へと軍勢を進めます
霧が深く物見が出来なかった事から
山形城は霞城と呼ばれるようになった
由来となりました
直江兼続本陣跡
そして現在山形市菅沢にある
沢泉寺近くに本陣を構え
長谷堂城へと侵攻します
その時長谷堂城主であった
志村光安は鉄砲で反撃を取るとともに
攻めては引き、引いては攻めての
粘り強く戦いを行い奇襲や夜襲を行う
知略にとんだ戦術で上杉軍に対して
一歩も引かずに戦い、
また援軍に駆けつけた鮭延城主
鮭延秀綱の大活躍よって
両軍が膠着状態へと陥りました
秀綱の活躍は直江兼続も驚き
「鮭延の武勇、信玄、謙信にも 覚えなし」
と舌を巻いたそうです。
主水塚
こちらは上杉軍の武将で
剣術新陰流の祖と呼ばれる
上泉泰綱が戦死した場所です
長谷堂周辺は大激戦地だった為
このような史跡が多く残っております
掃部の碑
こちらは伊達政宗の母で
最上義光の妹である義姫の
警護役として仕えた
武将加藤清次の碑で親友である
江口光清が畑谷城で戦死すると
憤慨し長谷堂の戦い参戦したが
長谷堂の北方で戦死しました。
湯目の碑
こちらは留守政景とともに
援軍で駆けつけた伊達家家臣
湯目重旧の碑で遅沢川辺りで
戦死したと伝わっております
長谷堂城趾の碑
突如戦いが急変します。
関ヶ原の合戦は一日で終結し
徳川家康の勝利で終わると
遠く出羽の国にも一報が届くと
兼続は撤退を開始し
前田慶次の活躍によって
見事な殿(しんがり)を勤めあげ
撤退していったと伝わっており、
また最上軍は徳川軍の勝利に
歓喜に溢れ撤退する上杉軍に対して
追撃をはかり多くの首級を
あげたとされます。
その際に義光自信も戦いに参加し
上杉の銃弾を浴びるが
奇跡的に命拾いをし
現在も最上義光記念館では
被弾した義光の兜が展示され
戦いの激しさを伝えております。
清源寺
そして関ヶ原の後、
義光は57万石へと大加増され
長谷堂城主であった志村光安は
酒田城主に抜擢され4万石へ加増、
長谷堂城には成沢城主であった
坂光秀が入城し統治しますが
1622年最上家の改易によって
長谷堂城が廃城され
その歴史に幕を閉じました
こちらの清源寺は
志村光安の牌所になった場所で
坂光秀の墓所となっており
内陸では最大のスケールが誇る
朱塗の仁王門となっております
長谷堂城散策は
駐車場も完備しており
アクセスも良好ですので
長谷堂城や周辺地域の
古戦場跡の史跡散策を
ぜひお待ちしています
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