どーもKABUOです。
2018年に一度、山形市にあります
鈴川地区の歴史や史跡について
執筆を行ったのですが
写真の質や文章の悪さが目立ち
再度加筆修正したいと思い
今回再度執筆にあたりました
今回は加筆修正にあたり
私が興味が引かれた同地区の
歴史や史跡についての
説明だけになりますが
地域に愛着が持って頂けるよう
分かりやすくご紹介出来ればと思います。
鈴川地区の歴史と史跡をご紹介!
鈴川小学校
鈴川地区の歴史ですが1889年
上山家、下山家、双月、院役、
大野目、高原の6か村が合併し
鈴川村が発足
1943年
山形市に編入され現在に至ります。
名前の由来は、村内を流れる
馬見ヶ崎川を伊勢神宮の五十鈴川に
なぞらえて選定されました
(鈴川コミュニティーセンター引用)
高原古墳
鈴川地区高原にあります高原古墳
6世紀頃の古墳だと思われ
山形県の史跡第一号に指定され、
この鈴川地区には古くから集落が存在し
豪族がこの地を統治していた事が
よくわかる史跡になります。
印鑰神社
奈良時代 737年
陸奥国鎮府将軍に赴任し
多賀城の創建に努めた
大野東人によって創建され
印役町はその門前町として
栄えた歴史を持つ地区になり
そのまま地名の由来となりました
東人朝臣は、
この銀の鑰を旗竿の先につけて
進軍したところ何処での戦でも
勝利をおさめ目的を達成して、
この東北に平和を招来することができました。
その神恩に感謝してこの銀鑰を祀って
神社を創建されたのが
當印鑰神明宮であります。
(印鑰神社公式ホームページ引用)
馬見ヶ崎川の氾濫の歴史
県道19号線
山寺街道に沿って町を歩くと
酒造場や醤油、味噌を製造販売する
醸造所をよく目にします。
1622年
最上家が改易され
鳥居忠政が山形に入部。
同じ時期に馬見ヶ崎川の
氾濫が立て続けに起こり
盃山を削り埋め立てを行う等の
馬見ヶ崎川の大規模な
河川工事が行われた歴史があり
そのため馬見ヶ崎川に沿って
集落を形成した双月町や山家町には
洪水にまつわる石碑が
多く建立されております
秀鳳酒造
印役町や双月町周辺は
元々は馬見ヶ崎川による
豊富な源泉を使用した田畑や
農地が広がっていたとされますが
馬見ヶ崎川の埋め立て工事の
影響により水脈が変わり
田畑が衰退。
その後、
影響を受けた周辺地域一帯に
第二次産業を勧める支援を行い
印役、山家は味噌、麹等の醸造所
大野目は和傘、双月は紙すきの
製造が盛んに行われるようになり
そのためこの地域には
醸造所が多いとされる
理由となっています。
山家城跡
国道13号線沿いを進むと
ヤマザワバイパス店から見える
小高い山には南北朝時代からの
古い歴史を持つ山家城があり
城主山家氏がこの地域を
統治した歴史を持ちます。
金勝寺
こちらのお寺は山家城城主
山家氏の菩提寺であったお寺で
また最上家始祖、斯波兼頼の嫡男
最上直家が葬られ
お墓が建立されており
山家地区の古い歴史を知ることが
出きるスポットになっております
山家城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです
tohokuhistory.yamagatakabuo.online
以上、
鈴川地区の歴史と史跡の
ご紹介でした。