どーもKABUOです。
2019年6月
山形城を中心に最上義光ゆかりのある
史跡巡りを行いました
今回は最上義光の菩提寺
光禅寺を訪れたときの様子を
ご紹介します。
最上義光の菩提寺、光禅寺を訪れた話。
光禅寺
最上義光の菩提寺、光禅寺
1614年、長い戦いに明け暮れ
山形市の基礎を作り上げ
69歳でその生涯を閉じました
深緑に満ち溢れ神聖な雰囲気すら
感じられる光禅寺の参道は春になると
桜が咲き誇る山形市きっての
桜の名所スポットでもあります。
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光禅寺の歴史は最上義光が
自らの菩提寺を建設するために
大石田にあります向川寺の住職
春林禅冬を招請して開創。
当初、慶長寺と称しておりましたが
幕府による元号を使った
寺院名をする事を禁じられていた為
義光の戒名であった
「光禅寺殿玉山道白大居士」から
名前を取り光禅寺となります
最初現在の七日町に創建されましたが
最上家改易後に鳥居忠正が入部すると
鳥居家の菩提寺を光禅寺の境内に移し
現在の場所へ門前町に住んでいた
住人と共に移転となり、
その際、最上家に召し抱えられた
元家来、浪人集が数百人集まり
この光禅寺まで義光の棺を
運んだとされます
門前町は三日町と呼ばれていた為
移転と同時に光禅寺のある地区を
三日町と改めらる事となり
地区の地名の由来となりました。
殉死した家臣のお墓
義光の死後、後を追うように
長岡但馬守、山家河内守、寒河江肥前守
寒河江十兵尉 、4家臣が殉死し
光禅寺へと埋葬され現在は
主と同じ境内で眠っております。
最上義光の墓所
最上家との結び付きが強かった為
寺院に数多くの最上家に関わる
貴重な資料が保管されていたとされますが
1894年
山形市内を襲った大火により
本堂を含め数多くの資料や記録が
全焼してしまうという
暗い歴史もありますが
その後、寺院を新しく立て替えられ
復興を遂げ現在に至っております。
あまり知られず
地味な所かもしれませんが
山形の英雄、最上義光の歴史に
触れる事が出来る場所ですので
ぜひ観光に立ち寄ってみてください