どーもKABUOです。
2019年6月
山形城を中心に最上義光ゆかりのある
史跡巡りを行いました
前回の記事はこちらです
今回は最上義光の嫡男
最上義康の暗殺にまつわるエピソードと
菩提寺常念寺をご紹介します。
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常念寺と最上義康暗殺の謎
常念寺
最上義康は
長男として生まれ秋田仙北地方を治める
小野寺氏との間に
有屋峠の戦いが始まると
総大将に抜擢されるなど勇猛果敢で
人望も厚く村民からも慕われる男で
東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の際
伊達政宗の援軍を
呼び寄せる交渉をまとめ
上杉軍の銃声が飛び交う戦場の中
銃弾に倒れる義光を救出し
奮戦する大活躍を見せます。
こちらが常念寺さんの
場所になります。
常念寺本堂
将来最上家当主として
期待されていた義康でしたが
家督相続を巡り最上親子を取り巻く
家臣団がいざこざを始めてしまい
義光、義康親子にも対立が生じます。
そして関ヶ原の合戦が終わった
1602年頃この事を
江戸の徳川家康に相談したところ
家康の近侍として長年使えた
次男最上家親を当主に
抜擢するように命じられ、
直ぐ様山形に帰った義光は
義康に対して高野山の退去を命じられ
庄内から海をへて高野山へ向かう道中、
何者かに銃弾を浴びせられ
義康は暗殺される事となります。
享年29歳の若すぎる死でした
ここまでが最上義康の簡単な説明でしたが
問題は誰が義康の暗殺を命令したかです。
最上義光の歴史文献や小説を読むと
色々と解釈がされており
次男家親に家督を次がせ
後々に禍根が残らないよう
義光自ら命令を出した説がありますが
しかし暗殺事件発覚後
義康の館に残された遺品の中に
父義光の武運祈願を記した日記を拝見し
酷く義康の死を悲しむ事件の調査を
家臣に命じた事から
義光が自ら暗殺の指示を命じたのにも
関わらず真相究明に乗り出す事は
あんまり考えられないと思いますし
自作自演だとしたら
とんだマッチポンプです!
では暗殺した黒幕を見てみましょう
義康暗殺事件の黒幕とされる人物は
上山城主でもあり最上四天王のひとりと
呼ばれる里見民部と言う男でした。
里見民部は義康暗殺後に身の危険を感じ
金沢前田家に身を寄せていたが
仕官の願いが叶わず各地を放浪した後に
尾浦城、下吉忠に身を預けられるが
将来の禍根を残すとして一族もろとも
庄内の地で処刑される事となります。
この処刑の背景には
義光の死の直前、家親に里見一族の
処刑を命じたとされる説があるそうです。
義康のお墓
里見民部は徳川に近い家親と
関係が近かった事もあり
最上義光と家親の心中を察して
忖度に動いた可能性も高いですし
また義康は豊臣方に近かった事や
徳川や最上と敵対していた
伊達政宗との距離が近かった為、
粛清の対象として徳川方からは見られ
暗殺された説もあるそうですが
真相は現在でも不明となっております。
義康の死後、義光は後悔の念は止まず
菩提を弔うために常念寺を菩提寺として
義康の成仏を祈りました。
その後、家親が最上家を継ぎますが
家中が乱れ混乱を乗じてしまい
最上家が改易した事から
もし最上義康が存命であり
最上家を継いでいましたら
現在の山形の町並みは大きく
変わっていたかもしれません。
以上
常念寺と最上義康暗殺の謎でした
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