どーもKABUOです。
津軽地方の歴史と史跡、
観光スポット巡りの
旅を行っておりました
今回は初代弘前藩主津軽為信の居城だった
堀越城の歴史と史跡を紹介します。
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堀越城跡の歴史と史跡をご紹介!
堀越城跡
堀越」という地名が文献上に現れるのは、南北朝時代の建武4年(1337)にさかのぼります。この時の記録には「堀越に楯(館)[たて]を築く」とありますが、この「楯」の詳細は不明です。
大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図ります。この頃から再び、「堀越」の地名が現れ始めます。
弘前藩が享保16年(1731)に編さんした弘前藩官撰史書『津軽一統志』によると、元亀2年(1571)、為信は堀越城から石川城(大字石川)の城主南部高信を奇襲し、石川城を攻め落としたとされています。その後、為信は大光寺城[だいこうじじょう](平川市)や浅瀬石城[あせいしじょう](黒石市)を攻略し、天正19年(1591)頃までには、「津軽右京亮」為信として豊臣秀吉より大名として認められ、領地安堵を得ることとなりました。
文禄3年(1594)、為信は堀越城を改修し、大浦城から居城を移します。その後堀越城は、弘前藩2代藩主信枚が高岡城(後の弘前城)へ拠点を移す慶長16年(1611)までの17年間、津軽氏の居城として栄えました。
(弘前市公式ホームページ引用)
堀越城は
八戸を拠点とする南部氏から
独立を目指した津軽為信の居城で
堀越城を拠点に南部氏配下の
武将と戦い数々の勝利のもと
津軽地方を制圧していき
その後、豊臣秀吉に所領を安堵され
南部氏から独立することなりました。
本丸跡
1600年関ヶ原の戦いの際に
津軽為信は徳川家康の
味方をしましたが家臣数名が
石田三成が勝つことを信じて疑わず
500の兵を率いて謀反をお越し
堀越城の占拠を行うという
事件が起きその後鎮圧されます。
さらにその後、1602年
津軽為信と長男、信建との間に
信建の息子である大熊の顔に
為信が誤って大火傷を
負わせた事により対立が生じ
津軽為信の使者であった
家臣、天童某が信建に処刑されると
これに怒った天童一族と家臣団数名で
信建の入る堀越城に乱入するといった
事件が起きてしまいました。
熊野神社
一連の事件により堀越城の防備面が
不安しされ1603年
新しいお城の築城を着手し
本拠地を弘前城へと移します。
そして、1615年
一国一城令により
堀越城は廃城となりました
現在一部は熊野神社の境内となっており
駐車場も完備され気軽に堀越城を
散策出来るようになっており
土塁がしっかりと残っており
凄く見ごたえがありました。
歴史好きには凄くおすすめです
(* ̄∇ ̄*)
以上、堀越城の歴史の紹介でした。
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