どーもKABUOです。
青森県津軽地方の歴史と史跡、
観光スポット巡りの
旅に行って来ました。
今回は弘前城を中心に
津軽藩初代藩主、津軽為信と
津軽氏の歴史をご紹介します。
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弘前城と津軽為信、津軽藩の歴史
弘前城
弘前城は津軽初代藩主、
津軽為信が築城を計画し
二代藩主津軽信枚によって
1611年に完成した
別名、鷹岡城と呼ばれた
お城になります。
津軽為信の出生には様々な説があり
南部氏支族で下久慈城の久慈氏とも
大浦守信の子とも言われており
青森一帯を統治した南部氏と
繋がりのある一族でした
南部氏から津軽地方を任され統治した
大浦城主、大浦為則に
養子として迎えられ、娘の阿保良と
結婚させ大浦家の後継者となり
1567年
大浦為則の死後家督を継承します。
1570年代
南部家当主、南部晴政の時代
晴政は戦には強かったのですが
一族や家来を統率する能力にかけた所があり
南部家一族同士が争う内部闘争が始まると
それに目を付けた津軽為信は
この機会に乗じて謀反をお越し
戦いを始め南部氏一族とその家臣をなぎ倒し
津軽地方統一を果たしました。
撮影時期2018年8月
弘前城は補修工事が行われており
いい風景の写真を撮影する事が
できませんでした。
津軽統一を果たした為信は
最上義光の助言により豊臣秀吉に
接近する工作活動を行い
石田三成の仲介により
秀吉に名馬と鷹を献上する事ができ
1590年
小田原攻めの際にいち早く
参陣を果たすことが出来ました。
一方で一歩遅れて
参陣を果たした南部氏は為信の
謀反行為を秀吉に訴えましたが
聞き入れられず為信は独立を果たし
大名として認知される事となります
この出来事により
南部氏との間に修復出来ない程の
亀裂が入ってしまい
後の津軽藩と南部藩の関係は
犬猿の仲であったとされますが
秀吉に行った工作活動は後の津軽氏の
未来を決定づける事となり
なかなかの策士だった事がよく分かる
エピソードではないでしょうか。
金剛山 景勝院
豊臣秀吉の死後、1600年
関ヶ原の戦いでは東軍、西軍両軍に
自分の息子を送り込む等
抜け目のない策を行い
合戦後、2000石の加増。
しかしながら津軽為信は
石田三成に恩義を感じていたようで
石田三成の次男、石田重成と
三女、辰姫を国元に迎え
辰姫を津軽藩二代目藩主
津軽信枚の正室にさせたとされます。
写真の景勝院にあります五重塔は
国指定重要文化財に指定されており
津軽為信が津軽統一の過程で
戦死した敵味方の供養の為に
建立した寺院になります。
津軽山 革秀寺
関ヶ原の合戦の後、為信は
初代津軽藩主として統治を行い
1603年、新城として
弘前城の築城を開始しますが
1607年、新城を見ることもなく
京都にて津軽為信は病死。
その後津軽藩は長きに渡り
蝦夷地警護や津軽地方を統治し
弘前市の基礎を築きあげ
幕末、そして明治時代を向かえます
こちらの革秀寺は為信の菩提寺になり
境内には為信の霊屋があり
見学することが出来ます。
以上、弘前城の歴史の紹介でした。
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