どーもKABUOです。
2018年9月頃になりますが
伊達政宗のお城がありました
仙台青葉城へ観光しに行きました。
その時の様子をブログで紹介
出来ればと思います。
前回の記事では伊達政宗の墓所
瑞鳳殿も紹介していますので
そちらもぜひご覧ください
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仙台青葉城へ観光した話!
青葉山公園仙台城跡
仙台城は伊達政宗が築城したお城ですが
伊達氏以前から城が存在しており
千代城と称し室町時代末期かけ
国分荘の国人、国分氏が居城し
仙代城を中心に宮城県南部を統治しました。
大手門脇櫓
国分氏も仙台地方中心に
勢力を拡大しましたが
戦国時代に入りますと
宮城地方に勢力を延ばした
伊達氏と衝突を起こします。
徐々に勢力を落としていった
国分氏は伊達政宗の父、輝宗の弟
伊達政重を養子に迎え
後に、政重は国分盛重と名乗り
伊達氏の武将となりました。
こちらの大手門があった場所は
戦前国宝に指定されておりましたが
仙台空襲により焼け落ちてしまい
現在は古い写真でしか
その存在は確認出来ないようです。
支倉常長像
しかし
国分盛重と伊達政宗が対立してしまい
1596年、出奔し
甥にあたる佐竹義宣を頼り
その家臣になります。
その後
佐竹氏の秋田転封に従い
横手城を与えられ
秋田伊達氏の祖となりました。
慶長使遣欧使節を率いた
支倉常長の銅像です
宮城県石巻市には
支倉常長の歴史がわかる
慶長使節船ミュージアムが
ありますのでぜひ訪れてみて下さい。
本丸北壁石垣
1600年
関ヶ原の合戦の後、
徳川家康から許しを得て
仙台に居城を移し
地名を仙台と改めたとされます
仙台が新しい本拠地に選ばれた理由として、
- 仙台付近は陸路は東海道の延長上にある「海道」とかつての東山道に由来する「山道」が合流し、水路は名取川・広瀬川を経由して閖上などの港から太平洋に通じるなど交通の要所であったこと。
- 岩出山城を居城に定めたのは豊臣政権の伊達氏を封じ込める政策によって一方的に決められた城であったこと。
- 関ヶ原の戦いの際に徳川家康と約束されたと言われている「百万石の御墨付」が実現されていた場合(置賜郡・伊達郡など7郡が政宗に与えられた場合)、岩出山城は新しい領国の中で北に偏り過ぎていたこと。
が、あったとみられている。新城は関ヶ原の合戦が迫る緊迫化した状況の中で計画が立てられ、千代城(仙台城)以外にも仙台に近い北目城を改築して本拠地にする構想も検討されていた(実際に慶長出羽合戦では北目城に陣が置かれている)。しかし、北目城を本拠地として改築するには時間がかかると判断され、最終的には仙台を新しい本拠地とすることになった[2]。
(Wikipedia引用)
この石垣見てください!
一切の隙間がない完璧な作り、
仙台城の築城技術の凄さが伝わってきますね。
仙台城本丸跡
青葉山と広瀬川に囲まれた
難攻不落仙台城でしたが
太平の世が訪れますと
往来が不便となり
仙台藩二代目藩主伊達忠宗により
二の丸を造営し二の丸を中心に
居住し政務が行われるようになります。
現在の本丸跡は建物らしき物は
ほとんど残っておらず
少し寂しい印象を受ける
観光スポットですね~( ゚Д゚)ノ
なんかのブログ記事で
がっかりした観光スポット特集に
仙台青葉城が記載されておりましたが
確かに本丸に何も無いのは
悲しい気持ちになりますよ ( ;∀;)
伊達政宗像
あー伊達政宗(* ̄∇ ̄*)!
山形県民の僕は声を小さくして
呟きたい一言が伊達政宗にあるんですよ
「政宗、米沢の人だからね!」
これを仙台の人に言ったら
大ひんしゅくを買う羽目に( 。゚Д゚。)!
喧嘩を売ってる訳じゃないのですが
でもこれを呟かずにはいられないよ(笑)
宮城県護国神社
戊辰戦争により仙台藩が降伏、
仙台城、城下とも戦火を免れますが
その後、仙台城には日本軍の
部隊第二師団が駐屯し
この時に本丸が破壊されてしまいます。
軍隊の駐屯に伴い
本丸跡地に現在の
宮城県護国神社が建てられますが
戦争の空襲の際に焼失し
その後再建される事となりました。
護国神社周辺では当時の戦艦のレプリカや
戦争関連の資料も展示されており
見ごたえがある内容です。
お土産処も充実しており
最後にここで仙台名物の
ずんだシェイクを飲んで
一服するのをおすすめです
仙台城の見所は
広瀬川と青葉山に囲まれた
自然の天然要害を兼ね備えており
自分が軍師であれば
どのように攻めるかを
想像しながら見学すると
よりいっそう楽しめると思います(´▽`)
以上、
仙台青葉城のご紹介でした
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