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どーもKABUOです。
合図若松市の歴史と史跡のご紹介の
続きになります。
前回の記事はこちらです
会津若松市の歴史と史跡をご紹介! 上杉氏と加藤氏編
直江兼続邸跡
上杉氏の歴史
1598年
豊臣秀吉の命により
新潟越後を治めていた
上杉景勝が120万石の加増移封され
会津地方を治める事となり
上杉景勝は蒲生氏の代わり、
東北諸大名の動きを牽制、
監視する役割を果たすことになります
写真は、上杉景勝の家臣
直江兼続の屋敷跡になります。
神指城跡
1598年8月
豊臣秀吉が死去
家臣であった石田三成と
徳川家康が対立するなか
石田三成と関係が深かった為
徳川家康とは対立していきます。
1600年
将来、家康との戦が行われると予測した
上杉景勝と直江兼続は
蒲生氏が築城した鶴が城では
将来手狭になると考え
現在の神指地区一帯に
神指城を築城を命じます。
築城した経緯について景勝は
「この城には致命的な弱点がある」と
鶴ヶ城の弱点を冷静に分析し
築城にあたったとされます。
その弱点は戊辰戦争の際に
会津藩士と新政府軍と戦いで
露呈してしまう悲劇がありました。
神指城跡には現在でも
土塁の跡が残っており
神指城は築城途中となり
関ヶ原の後、破却されます
高瀬の大ケヤキ
1600年7月
上杉討伐に向かった家康の留守中に
石田三成が挙兵し、引き返した家康と
関ヶ原で衝突します。
一方上杉軍は
家康に組する山形の最上義光と
衝突しますが膠着状態が続いてしまい
その後、石田三成の敗北を知り
退却を余儀なくされます
1601年
景勝と兼続は家康に接見し
謝罪をしたため
お家取り潰しとまで行きませんでしたが
米沢30万石へと減封され改易します。
こちらの高瀬の大ケヤキは
神指城跡近くにあり
これを基点に城を設計したとされ
国の天然記念物に指定されています。
その後、
上杉氏の後、
再び蒲生氏が入部し会津藩が
立藩されますがすぐに没落し
次は加藤氏の時代に変わります。
鶴ヶ城の改修
加藤氏の時代
1627年、
蒲生氏と入れ替わりでで
愛知県伊予松山から
加藤嘉明が会津に入部します
一説には伊予松山の城下基礎を固め
温暖な気候を好んだ嘉明は
40万石の加増入部でありましたが
東北の寒冷地帯である事から
あまり会津の地に移り住むことは
うれしくなかったとされます。
嘉明入部後に積極的に城下の整備を行い
蒲生時代の時大地震で倒壊した
鶴ヶ城の改修も行ったとされ
現在の鶴ヶ城の原型となりました
写真は鶴ヶ城改修の際
上杉時代に築城途中にされた神指城から
石垣を運んだとされる跡になります
キリシタン塚
1631年
加藤嘉明が死去
子息の加藤明成が継ぎますが
年貢を厳しく取り立てる等
厳しい圧政を敷き
悪政の限りを尽くすと
それを戒めた家臣である堀主水との
軋轢による会津騒動が起こると
重く見た幕府は石見吉永藩一万石に
減封、改易させる重い処罰を
与えることになります。
写真は明成の時代に
弾圧されたキリシタンの
処刑跡になります
その後、山形藩から
三代将軍徳川家光の
異母兄弟にあたる
保科正之が入部しする事となります
つづく
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