どーもKABUOです。
今回は、仙台市青葉区愛子地区の
歴史と史跡をご紹介します。
愛子地区は作並街道の宿場町として栄え
近くには戦国時代の史跡も多く
見応えがありますので
ご紹介できればと思います。
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愛子地区の歴史と史跡
愛子駅
中世まで、現在の仙台から西に向かう街道としては、青葉山丘陵を越えて蕃山丘陵の北麓にそって蛇行し、南よりに山道に分け入る最上古街道があった。
17世紀初めに仙台藩は、仙台城がある青葉山を通さず、北に迂回して広瀬川沿いに道を開き、愛子盆地をほぼ直線で東西に突っ切る街道を設定した。西道と呼ばれたこの街道に設けられたのが、愛子宿である。中世の町を継承したものではなく、宿駅機能のために近在から移転させて作った町と考えられる。上愛子村と下愛子村の境界で、両村にほぼ半々にまたがる立地であった[1]。東西に延びる道の両側に家並みが並ぶ町であった。
Wikipedia引用
広瀬村道路元標
1955年
作並街道の宿場町であった愛子地区は
広瀬村と大沢村による合併によって
宮城町が誕生。
その後、1987年に
政令指定都市を目指していた
仙台市と合併し現在は
仙台市青葉区へと
町名が変更されました。
宮城町の町名は消え去りましたが
愛子地区にある七十七銀行に
宮城町支店と書かれた看板があり
当時の名残が残っております。
写真はは街道の名残である
道路標識だと思われる史跡です。
子愛観音
こあやしかんのんと読みます。
仙台市にある輪王寺の亀陰和尚が
輪王寺の末寺として開山。
愛子地区の地名の由来は
子愛観音から来ており
敬宮愛子様のご誕生により
一躍愛子地区は有名になり
地元では子宝・安産を祈願する
菩薩として崇拝されています。
諏訪神社
源頼朝が奥州合戦の際に祈願し
勝利を得たので、家臣の留守家景に
社殿を造営させたのが始まりで、
その後、戦国大名国分氏によって
1457年再興し御殿山の山頂から
現在の位置へと移され
その後、伊達政宗以降
仙台伊達藩の加護により
現在にいたります
諏訪神社の裏手にある
御殿山の山頂には
野武士が立て籠ったとされる
御殿館跡の史跡が残されており
防御性の強い山城があったとされます。
参道を歩くと風が吹き抜け
真夏の暑さと汗が吹き飛ぶ
癒しスポットでした。
愛子地区は国道48号線沿いに
都市開発が進み町は発展します。
しかし、
国道の裏手にはこのような
田園風景が残り、
近くには国分氏家臣の舘跡
南館跡が残っています。
郷六城跡
仙台市青葉区郷六地区に
お城跡の史跡が残っております
地名の由来は伊達政宗より前、
仙台地方を治めた国分氏の家臣
郷六氏が治めていたことより
地名の由来となったそうで
国分氏が伊達氏の傘下に加えられた後、
愛子に移り住み森田姓を名乗ります。
お城跡ちかくにあります
宇那禰神社は郷六氏の氏神として
創建された歴史をもちます
西館跡
仙台市指定史跡の一つ西館跡
伊達政宗の長女、五郎八姫の
御殿跡地になります。
ここで五郎八姫について説明します
文禄3年(1594年)6月16日、京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている[1]。
Wikipedia引用
五郎八姫は徳川家康の六男、
徳川忠輝のもとに嫁ぎ
仲睦まじかったとされます
しかしその後、
忠輝の改易に伴い離縁され
伊達政宗に引き取られ
仙台城に住む事となり、
仙台に戻って来た五郎八姫は
仙台城の二の丸に住んでいたことから
西館様と呼ばれるようになり
伊達政宗が亡くなった後、
こちら屋敷に移り住んだとされ
西館跡の地名の由来となっております。
以上、
愛子地区の歴史と史跡紹介でした
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