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どーもKABUOです。
今回は、
会津プチ旅行で見てまわった
会津若松市の観光スポットや史跡を
歴史の時系列順にご紹介します。
会津若松の歴史と史跡のご紹介 蘆名氏と蒲生氏郷編
小山田城跡
戦国大名蘆名氏の歴史
会津地方を歴史上最初に
治めていた人物は
蘆名氏と呼ばれる人物で
出生は三浦半島に生まれた
佐原義連を祖としており
鎌倉幕府を開いた
源頼朝の家来であった佐原義連は
源平合戦の際に数々の武功をあげ
1191年に会津の地頭に任命され
会津地方を統治していきます。
その後、
2代目領主、蘆名盛連により
会津若松市にある小田山に
山城、小田山城を築き、
城下を黒川と称し、
黒川と呼ばれる地こそ
会津城下町の原型となっていき
当時は黒川城と呼ばれていました。
小田山城跡には
蘆名氏一族のお墓もあり
史跡跡が数多く残っております
蘆名家花見ヶ森廟
その後、
蘆名氏と名前を改名し
周辺地域と福島の覇権争いを展開させ
16代目領主、蘆名盛氏の時代に
最盛期を迎え、福島の中通りまで
勢力を拡大させて奥州最大の都市として
発展させていきます
しかし、一族の猪苗代氏等の
家臣の統制に苦心し、後継者争いから
次第に力が衰え始め、
そして1589年、
伊達政宗との
猪苗代湖周辺を舞台にした
摺上原の戦いで大敗を決し
領主、蘆名義広は常陸に逃走し
戦国大名蘆名氏は滅んでしまいます。
蘆名家花見ヶ森廟には先程説明した
16代領主蘆名盛氏の他に
17、18代蘆名家当主の
お墓が静かに佇んでおりました。
蒲生氏郷の時代
会津地方を制した伊達政宗でしたが
時代は豊臣秀吉の時代へと変わっており
豊臣秀吉の奥州仕置により
伊達政宗は宮城県大崎市岩出山へ移封され
会津地方に蒲生氏郷が入封します。
会津若松城、西側の堀
会津において蒲生氏郷は
黒川城を改築し氏郷の幼名にちなみ
蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで
鶴ヶ城と名付けられます。
甲賀町口門跡
天寧寺町土塁跡
築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた[29]。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
(Wikipedia引用)
甲賀町口門跡や天寧町土塁跡も
蒲生氏郷時代に作られた史跡跡です。
その他にも会津名産品の漆器や
工芸品もこの時代に確立させ
会津若松城下町の基礎を作り出し
後の会津藩へと受け継げられました。
麟閣
鶴ヶ城の中にある茶室です。
蒲生氏郷も茶を嗜んだ文化人でもあり
秀吉の命令で切腹した千利休の息子、
小庵にも類がおよび、
利休の茶道が絶えるのを惜しんだ
蒲生氏郷は小庵を会津で
かくまったとされ、
その時
小庵が建てた茶室がこちらの
麟閣になります。
その後、小庵は京に帰り
千家を復興させたと言います。
興徳寺 蒲生氏郷の墓
1592年
文禄の役、秀吉の朝鮮出兵の頃から
体調を悪くしてしまい
1595年死去します
蒲生家の家督は
息子の蒲生秀行が継ぎましたが
重臣同士の対立を招いてしまった
御家騒動を起こした結果
1598年、
蒲生氏郷が亡くなって3年後
宇都宮へと減封されてしまい、
その後、新潟越後を治めていた
上杉景勝が入封する事となりました
つづく
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