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最上家始祖、斯波兼頼の歴史の
続きになります
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最上家始祖 斯波兼頼の歴史2
山形に入部した斯波兼頼の動向
慈光寺
1356年
最上郡(現在の村山郡)山形に入部した
斯波兼頼はその年、
こちらの慈光寺の境内にあたる
西根小但馬の屋敷で年を越し
その翌年
山形城を築きあげ最上郡を治めます
山形城霞城公園
当時は南北朝動乱の時代であり
村山一帯は南朝方の勢力が
支配している地域でした
足利一門であった斯波兼頼は
北朝方であった為、南朝方の勢力と
争うこととなります。
当時の南朝方の主な地域と武将は
天童を本拠地とする北畠天童丸
山形市山家を治めていた山家氏
東根を本拠地にした小田島氏
寒河江を治めていた大江氏が
主な武将と勢力図となっています
そんな中、兼頼がとった策は
山家氏に対し調略をしかけ
山家氏と婚姻関係を結び
山家地域の支配を固めると
北畠天童丸、小田島氏に対して
圧力をかけ駆逐していきます
また天童市成生を治めていた
里見氏に対しては次男頼直を
養子に出す戦略結婚等を行い
各地域に親類を置き
支配地域の基盤を固めて
いく事となります
大江氏との激戦 漆川の戦い
そして1367年
現在の大江町付近で大江氏と
斯波兼頼と兄、直持の連合軍が
激しく衝突し見事、大江氏を撃破し
村山地域一体治めることとなりました
その後の斯波兼頼
円応寺
宝幢寺跡(現もみじ公園)
斯波兼頼は村山地域を統一するなか
様々な社殿や神社仏閣を建造し
人々の人心と安定を把握します
写真の円応寺と宝幢寺跡も
斯波兼頼が建造されたと
言われています
光明寺(斯波兼頼菩提寺)
晩年の兼頼は、高名な遊行上人他阿元愚(たあがんぐ)の布教に感動して、自ら時宗の僧となり、其阿(ごあ)の法名を受けました。家督を嫡子直家にゆずり、城中に道場を開いて念仏三昧の余生を送りました。この道場が後に光明寺となります。
南北朝の戦乱と足利一族の抗争という、修羅の時代を生き抜いてきた兼頼。康暦元年(1379)、兼頼は一心に阿弥陀仏を念じて浄土に往生しました。山形在住23年、享年64歳でした。
最上歴史記念館引用
家督を嫡男直家にゆずった後、
光明寺で念仏を唱える
隠居生活を送ったとされます
光明寺は
現最上歴史記念館にあったのですが
最上氏が改易後に山形に入部した
鳥居氏の代に現在の七日町付近に
移転となったそうです
斯波兼頼の墓石
光明寺の境内にある斯波兼頼のお墓です
64歳で生涯を閉じた
波乱の人生だったでしょう
今、山形市があるのも最上義光と
この斯波兼頼が基礎を築き
貢献したことは山形市の歴史に
深い意味を持つ事だと思います
以上斯波兼頼の歴史でした