どーもKABUOです
山形県天童市にありますお城跡
天童城と戦国武将天童氏の
歴史と史跡をご紹介します。
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戦国武将天童氏と天童城の歴史と史跡をご紹介!🏯
天童城趾(舞鶴山公園)
天童市にあります舞鶴山公園
今では天童将棋祭りの開催地でもありますが
その昔天童周辺を治めた天童氏の
天童城があった場所でありました。
天童城の前身は
当時、南北朝時代に南朝方の
天童を治めてた北畠天童丸が
舞鶴山に築城した事から始まり。
天童丸は山形に入部した北朝方である
斯波兼頼との対立と圧力により
徐々に勢力を落としていき
その後、青森県の津軽地方
浪岡方面に落ち延びていきます
天童丸の名前である天童が
そのまま天童市の地名の由来となり
その後、この地を治める
天童氏に引き継がれていきました。
天童氏の始まりは成生地区で勢力を誇り
成生楯を本拠地にした里見義成に対し
斯波兼頼の弟、義宗を養子に
出した事から始まります。
義宗死後は、最上家3代目当主
最上義満の弟、頼直が里見氏に
2代続けて養子に入る事となりました。
その背景には山形城を中心に
国造りを図った斯波兼頼は
親族を送り縁戚関係によって
勢力拡大を目指したと思われます。
その後、成生楯の防備面の不安から
舞鶴山に居城を移し天童城の
築城にいたる事となりました。
成生楯の歴史と史跡は
こちらの記事で紹介しています
天童城趾案内図
天童氏は自らの子らを
東根、上山、高擶、寺津と 配置して
勢力を拡大しその勢力は
宗家である最上氏と並ぶようになり、
1514年、米沢を本拠地にする
伊達稙宗の軍勢が村山に侵攻した際は
天童氏は最上氏と共に長谷堂城で
奮戦しますが敗戦、
最上氏は伊達氏の傀儡となり
支配を受ける事となります。
天童城趾の大ケヤキ
敗戦後の天童氏の行動は
村山地方北部に拠点を置く
国人衆との同盟関係、最上八楯を結成し
勢力を拡大化させる事となりました。
なぜ最上八楯の結成に至ったかを
私なりに分析したのですが
盛大な勢力を増す伊達氏に対し
天童城および北村山郡の侵攻に対しての
警戒感が各地域を治める国人との利害が一致し
同盟に至ったのでないかと推測します。
天童城趾中央郭
人間将棋祭り開催スペース
最上八楯の構成は
天童氏、延沢氏、飯田氏、楯岡氏
尾花沢氏、長瀞氏、六田氏、成生氏と
各国人衆が各地域を統治しておりました
その後天童氏は縁戚関係である
東根氏、上山氏や高擶氏
小国城(最上町)を治めた細川氏など
強固な同盟関係を構築していき
村山の覇者へと登り詰めていきますが
そこで立ち塞がるのが
山形城主、最上義光でありました。
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