どーもKABUOです
今回は天童市の歴史に触れ、
天童を治め織田信長の子孫が治めた
天童織田藩の歴史や天童を舞台にして
起こった戊辰戦争の歴史を
紹介出来たらと思います。
喜太郎稲荷神社前
天童織田藩陣屋跡
最上義光が天童一帯を治めたのが
1584年に当時天童を治めていた
天童頼澄を責め滅ぼした後でした
その後、最上家が改役にあい、
目まぐるしく藩主が入れ
替わる事となります。
その後、天童市内一帯を治めたのが
高畠藩(山形県高畠町)を治めていた
織田信美が1830年に天童に移転となり
最初の藩主になります。
こちらの喜太郎稲荷神社前が
天童織田藩の陣屋跡です。
今は天童駅まで続く線路が
横切っていますが当時は線路奥まで
陣屋の立地が広がっておりました
天童陣屋大手門跡
天童市の情報では
天童織田藩は、織田信長の次男信雄を祖先にもつ藩であります。
織田信長が天正十年(1582年)家臣の明智光秀に襲われ本能寺で自害し、次男信雄が跡を継ぐことになりました。その後、織田家は小幡藩(群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治め、天保二年(1831年)に、藩主の信美が天童に入り、天童織田藩が成立しました。
天童織田藩の石高は、およそ2万3千石で、領地は村山地方(村山郡)21カ村でありました。現在の天童市の中では、天童、大清水、窪野目、長岡、芳賀、寺津、小関、荒谷にありました。
その当時、現在の天童市には天童織田藩領のほか土浦藩北目分領、館林藩領、幕府領、棚倉藩領の村々が混在しました。
天童と織田藩のかかわりは、高畠に国替えになり天童がその支配下に入ってから、幕末に織田藩が消滅するまでの、およそ100年間になります。
その中でも、天童館(現天童市田鶴町)を中心に家臣たちを住まわせ、直接、織田藩が天童を治めていたのは、織田信美以降、わずか約40年間でありました。
(天童市政情報 天童織田藩あらましより引用)
と説明されております。
大手門の場所が分かりにくかったのですが
たちばなや薬局さんから
少し小道に入る所があり
民家の中に大手門跡と
書かれた柱が立っております
三寳寺
天童織田家の菩提寺となります
御霊屋 仰徳殿こうとくでんの正面には、織田信長の肖像画の写真が飾られています。肖像画は、宣教師が描き、信長に最も似ているといわれているものです。それを明治の中頃、天童織田藩出身の宮中写真師が複写し、宮内庁、織田家にも納められましたが、現存するのは三寳寺だけになっています。仰徳殿には、信長をはじめ、歴代藩主の位牌も安置されています。
山形県ホームページ引用
御霊屋の中には宣教師が書いた
織田信長の肖像画が飾ってあり、
ちょうど行った際にお寺の関係者の方が
いらっしゃり、中を見学する事が出来ました
天童市立旧東村山郡役所資料館
http://www.city.tendo.yamagata.jp/tourism/kanko/gunnyakusyo.html
公式ホームページ
東村山郡の役所として使われた後、
天童織田藩、東北戊辰戦争の歴史や
天童市の歴史の資料館として
活用されております
明治天皇が東北巡幸の際は
休息された場所でもあります。
館内では詳しく天童織田藩の歴史や
天童市を舞台にした戊辰戦争の
歴史的資料が展示されており
幕末や歴史に興味があるかたには
凄くオススメです
吉田大八
しかし天童織田藩は幕末、
時代の渦に飲み込まれてしまいます。
慶応4年(1868年)、朝廷は鳥羽・伏見の戦いの首謀格とされた会津藩の追討を仙台藩など東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝・副総督澤為量らを東下させた。これに先立ち、天童藩は織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられた。しかし、藩主信学は病弱、世子の富久之助(信敏)は若年であったため、同年3月24日、名代として吉田守隆が先導役に任命された。
ウィキペディア引用
吉田守隆が写真の吉田大八ににります
新政府軍が庄内藩と会津藩を潰そうと企て、
案内人として天童織田藩が
任命されてしまう事になりました。
先導役となった守隆は、薩摩藩・長州藩・仙台藩らの連合軍を率いて庄内藩と交戦。この結果、陣屋は庄内藩兵の攻撃を受けて炎上した。
ウィキペディア引用
天童藩と新政府軍は庄内藩と
最上川を挟み交戦する事になりますが、
庄内藩の圧勝に終わり天童陣屋及び、
天童市街が炎上してしまいます
この時、吉田大八は身の安全をはかるため
老野森の民家に身を潜めました
一方、鎮撫軍内部では、戦闘を避けて穏便に和解を図ろうとする東北諸藩と、会津藩を討伐しようとする鎮撫総督との間で亀裂が生じていた。この亀裂は、会津藩や東北諸藩に対し厳しい態度をとった鎮撫軍参謀世良修蔵の暗殺、奥羽越列藩同盟の結成につながった結果、奥州は反鎮撫軍一色となった。天童藩も先導役を辞退し、列藩同盟に加盟せざるを得なかった。
守隆は責任を取り、漆山村(現山形市漆山)に蟄居した。親交のあった桂太郎が蟄居中の守隆に逃亡を勧めたが、守隆は「藩主に迷惑がかかる」と断ったと伝わる。
その後、列藩同盟からの圧力に対し、天童藩は守隆に死を賜ることにした。守隆は6月18日、天童妙法寺の観月庵で絶命辞を残し切腹した。
ウィキペディア引用
天童妙法寺の観月庵
鎮撫軍参謀 世良修蔵の暗殺が
決めてとなり東北の一部の藩は
奥羽越列藩同盟に組み入り
東北戊辰戦争へと火蓋が切られる訳ですが
本当はほかの藩も
穏便に済ませたかったのにズルズルと
引き込まれる形となります
そんな訳で新政府軍を引き込んだ
吉田大八をスケープゴートのような形で
責任を取らされる事になります。
佛向寺 吉田大八の墓所
激しい動乱の時代に翻弄され
庄内藩と東北の他藩、新政府軍との板挟みに
挟まれた吉田大八の苦悩を感じられずには
いられないです。
山形の戊辰戦争の歴史を見ると
大藩や新政府軍を相手に
右往左往しながらズルズルと
引き込まれていくのが
よくわかります
建勲神社
http://sp.bussan-tendo.gr.jp/?p=detail&d=1354
公式ホームページ
明治維新の際、天童織田藩は、官軍(新政府軍)に味方したこと、藩祖信長の功績を讃え、明治政府より信長に建勲神たけしいさおのかみの神号を賜り、建勲神社たけいさおじんじゃとして、明治3(1870)年に日本で最初に舞鶴山に祀られました。
公式ホームページ引用
天童織田藩は戊辰戦争の時に
新政府軍に味方した事により
建造された社殿で、
5月頃にはつつじも咲き、
現在ではつつじ祭りが開催されています
以上、
天童織田藩と吉田大八
戊辰戦争の悲劇をご紹介でした