KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

最上義光の骨肉の家督争い 中野城と天正最上の乱をご紹介🏯!

どーもKABUOです。

 

2019年7月

山形市中野地区にあります

中野城の歴史と史跡を調査しました。

 

大郷小学校の敷地内にあります

こちらのお城跡は

山形城の支城として築城され

歴代の山形城主にも抜擢された 

最上家の分家にあたる一族になります

 

また最上義光の時代には父義守と

骨肉の家督争いを演じた

天正最上の乱が起こった場所でした。

 

今回は中野城の歴史と天正最上の乱の

経緯を分かりやすくご紹介出来ればと

思います

 

スポンサーリンク

 

 

 

中野城と天正最上の乱をご紹介!

 

 

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190730225809j:plain

 

中野城址

 

中野城は中世における山形城の

支城として山形城3代最上義直の

次男満基が15世紀初めに築城した

連郭式の平城になります

 

中野城の須川を挟んだ北には

寒河江を治める寒河江大江が支配し

戦略上のみならず

酒田港から舟町に荷揚げされる

荷物の往来から経済上、

水陸の交通上と重要な拠点であり

 

また最上家6代当主最上義秋に

子供がいなかった為、中野城から

中野満氏が最上家を継ぐ等

庶流として密接な関係を

宗家最上家と結んでおりました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190730232446j:plain

 

雲祥寺

 

しかし9代当主最上義定の時代に

伊達稙宗が山形に侵攻し

山形城の支城長谷堂城が落とされると

伊達氏の支配下に入ってしまい

最上家勢力が衰退していきます

 

更に悲運が続き義定は

子供を作らないまま死去してしまい

それに目を付けた伊達稙宗が

最上家の後継者争いに

政治介入を果たし義定の弟で

中野城主義建の孫義守を

僅か2歳で山形城城主に

迎え入れますが事実上最上家は

伊達氏の傀儡と化してしまいました。

 

そしてこの義守の息子こそが

あの最上義光であります

 

写真の中野地区にあります

雲祥寺は9代当主最上義定の

菩提寺になります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190730234151j:plain

 

山寺立石寺

 

 最上義守は伊達稙宗の侵攻のおり

伊達氏に味方した山寺立石寺は

天童頼長によって焼き討ちされましたが

義守がその再建にあったとされ

また伊達氏の内紛である

天文の乱の際には戦局を見ながら

巧みに世を渡りまた自分の娘である

義姫を伊達氏に嫁がせる等

政略にとんだ人物でありました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190731001429j:plain

 

山形城

 

しかしあまり嫡男である義光とは

仲が悪かったようで、

 

そのかわり義光の弟である

中野義時を溺愛し

時期山形城主には義時を考えており

一時は義光は天童高擶城に

遠ざけたとこともあったそうでが

家臣、氏家定直の調停により

和解が成立し家督が義光に譲られ

弟義時は中野城主へと

抜擢される事となりました

 

しかし義光のやり方に難色を示した

隣国の国人衆が義守を担ぎあげ

義光の討伐を進める事となります

 

それが義光と義守の骨肉の争い

天正最上の乱でした。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190731002940j:plain

 

柏木山古戦場

 

義守は各地の国人衆に書状を出し

娘義姫の嫁ぎ先の伊達氏とも

接触をはかり出兵を促すと、

時の当主伊達輝宗は承諾し

米沢から上山に兵を進め出陣を図ります

 

現在山形市

みはらしの丘周辺で両軍が激突し

伊達輝宗優勢かと思われましたが

最上義光の軍勢の粘りによって

戦いが硬直状態に陥り、

 

その後、谷地城主白鳥長久の仲介により

その後両軍和睦し伊達輝宗に

味方をお願いした義守は劣性に

立たされる事となりました

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190731005727j:plain

 

鳥海月山両所宮

 

また弟の中野義時は

山形城主になれなかった恨みから

鳥海月神社で呪詛を行ったとされ

それが義光に露見すると激怒し

中野城に夜襲をかけ義時を

自害に追い込み家督争いに

終止符を打つことになりました

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190801210751j:plain

 

宝光院

 

義守との争いから中野城に

権力を持たせる危険性から

影響力のある寺院を

山形城下に移し弱体化をはかり

義光は権力を掌握していくの

でありました。

 

こちらの宝光院も中野から

山形城下に移転され最上家改易後に

山形城の建物を移健したと

伝わっております

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190731005651j:plain

 

龍門寺 義守の菩提寺

 

しかし近年の研究から

中野義時の文献が少ない事から

創作上の人物だったとされており

実際に争ったのは義光と義守

親子だったとされます。

 

最上親子の争いの原因ですが

父義守は隣国や国人とは

婚姻関係や自立性をゆるした

ゆるやかな連合をめざしたのに対し

義光は強固な権力集中をめざした事から

権力の方向性の違いから

隣国や国人衆から反発を招き

このような事態に陥ったと

推測されております。

(伊藤清朗、最上義光参考)

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190731010824j:plain

 

最上義守のお墓

 

そしてその後、

義守はこちらの龍門寺で隠遁し

70歳でこの世を去り

 

義光死後、1622年

最上家の改易によって

中野城が廃却され廃城となりました

 

天正最上の乱は最上義光が

その後57万石の大名に登り詰める

ターニングポイントでしたので

中野城の歴史はとても興味深く

見ごたえがある城跡でした(´▽`)

 

以上

中野城と天正最上の乱でした。

 

また中野城のあります大郷地区の

歴史と史跡の調査をこちらの記事も

ご覧ください

 

www.yamagatakabuo.online

 

ランキングに参加しています

記事の内容がよろしければ

バナークリックをお願いします

にほんブログ村 旅行ブログ 東北旅行へ
にほんブログ村

 

 

スポンサーリンク