KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

長谷堂城と東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の歴史と史跡をご紹介🏯!

どーもKABUOです。

 

山形市長谷堂にあります

山形百名山に数えられる城山。

その昔、山頂には長谷堂城と

呼ばれる強固な山城があった場所です。

 

長谷堂城は山形城の支城として

南陽市を結ぶ小滝街道と

上山からの侵攻を防ぐために

山形城主最上氏によって築城され

 

東北の関ヶ原と呼ばれた

慶長出羽合戦の際に

最上義光と直江兼続が

激しく争いを広げた

歴史的な場所になります

 

今回、長谷堂城と関連する

周辺地域の史跡を調査しましたので

歴史的経緯を踏まえてご紹介します。

 

スポンサーリンク

 

 

 

長谷堂城と東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の歴史と史跡をご紹介!

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722220134j:plain

 

城山

 

長谷堂城は別名亀ヶ城と呼ばれ

標高220mの城山に

南の本沢川を天然の堀に見立て

自然の地形を巧みに利用した

築城された山城になります

 

築城された年は不明とされていますが

歴史に初めて登場したのが

 1514年

山形城主、最上義定と

山形に侵攻した伊達稙宗の争いで

長谷堂城で防戦を行ったが敵わず

伊達氏に降伏したと伝えられています

 

その後、伊達氏から内政干渉を受ける等

最上氏の国力が削がれるますが

伊達氏の家中で争いが起こると

そのどさくさに紛れて最上氏が

国力を取り戻し伊達氏から

独立していきます。

 

その時代が最上義光の時代でした。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722220232j:plain

 

長谷堂城は現在公園整備され

駐車場が完備されており

気軽に城山を登頂する事が出来ます

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722223140j:plain

 

こちらはお堀跡です、

公園整備化によって

当時のお城の様子がよくわかります

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722230650j:plain

 

お城の登頂口は6つ程あり

おすすめはこちらの八幡口、

こちらから登頂しますと

効率よく長谷堂城を巡ることが出来ます

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722231250j:plain

 

八幡神社

 

長谷堂城の歴史の中で

一番の激戦を演じた慶長出羽合戦

 

1600年

豊臣秀吉の死後、

豊臣家の家中は内部で争いが始まり

石田三成と徳川家康とで対立します

 

石田三成方に与した上杉家と直江兼続は

徳川家康を糾弾する直江状を家康に宛てると

上杉家を討伐する為、徳川家康は会津へ出兵。

 

一方は最上義光は娘である

駒姫が秀吉に処刑された為

豊臣方に深い恨みもあり徳川家康と手を組み

出羽諸国の大名を集めて山形城から

会津に攻め混む準備を行っておりました。

 

悲劇のお姫様、駒姫の記事はこちらです

 

www.yamagatakabuo.online

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190722232912j:plain

 

  稲荷神社

 

しかし

西方から三成が出兵すると

急遽家康は西方に軍を返し

関ヶ原の戦いへと突き進み、

 

その一報を聞いた兼続は

西方は三成に任せ北側勢力を削ぐために

山形城へと侵攻していきます

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724233100j:plain

 

長谷堂観音

 

その頃、義光は

集まった出羽諸国の大名が

西方の寝返りや諸事情によって

最上勢からの離反が相次ぎ

その苦境のなか上杉勢25000と

戦わなければなりませんでした

 (ちなみに最上軍は7000人と

絶望的な状態でした)

 

こちらは長谷堂城内にあります

最上三十三観音12番札所

長谷堂観音になります

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724221836j:plain


上杉軍、最上軍の配置図 

 

上杉軍は庄内、白鷹、上山方面と

部隊を分けて破竹の勢いで

最上軍の支城を打ち破っていき、

一報最上軍は兵力の少なさから

支城を捨て去り山形城、上山城

そして長谷堂城へと兵力を集中させる

作戦を取り持久戦へと持ち込みます

 

その間に嫡男である

最上義康を伊達政宗に遣わせ

援軍を要請を行い留守政景

3000の兵が援軍に到着します

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724223357j:plain

 

富神山頂上

 

白鷹方面から狐古道を抜けた上杉軍本隊は

まずは畑谷城を攻め落とした後に

直接山形城へと軍を進めるため近くの

富神山で物見を行いましたが

霧が深くそれが10日間も続いた為

直接山形城を戦うのを取り止め

支城であった長谷堂へと軍勢を進めます

 

霧が深く物見が出来なかった事から

山形城は霞城と呼ばれるようになった

由来となりました

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724223629j:plain

 

直江兼続本陣跡

 

そして現在山形市菅沢にある

沢泉寺近くに本陣を構え

長谷堂城へと侵攻します

 

その時長谷堂城主であった

志村光安は鉄砲で反撃を取るとともに

攻めては引き、引いては攻めての

粘り強く戦いを行い奇襲や夜襲を行う

知略にとんだ戦術で上杉軍に対して

一歩も引かずに戦い、

 

また援軍に駆けつけた鮭延城主

鮭延秀綱の大活躍よって

両軍が膠着状態へと陥りました

 

秀綱の活躍は直江兼続も驚き

「鮭延の武勇、信玄、謙信にも 覚えなし」

と舌を巻いたそうです。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724225936j:plain

 

主水塚

 

こちらは上杉軍の武将で

 剣術新陰流の祖と呼ばれる

上泉泰綱が戦死した場所です

 

長谷堂周辺は大激戦地だった為

このような史跡が多く残っております

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724231816j:plain

 

掃部の碑

 

こちらは伊達政宗の母で

最上義光の妹である義姫の

警護役として仕えた

武将加藤清次の碑で親友である

江口光清が畑谷城で戦死すると

憤慨し長谷堂の戦い参戦したが

長谷堂の北方で戦死しました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724232630j:plain

 

 湯目の碑

 

こちらは留守政景とともに

援軍で駆けつけた伊達家家臣

湯目重旧の碑で遅沢川辺りで

戦死したと伝わっております

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190724233022j:plain

 

 長谷堂城趾の碑

 

突如戦いが急変します。 

 

関ヶ原の合戦は一日で終結し

徳川家康の勝利で終わると

遠く出羽の国にも一報が届くと

 

兼続は撤退を開始し

前田慶次の活躍によって

見事な殿(しんがり)を勤めあげ

撤退していったと伝わっており、

 

また最上軍は徳川軍の勝利に

歓喜に溢れ撤退する上杉軍に対して

追撃をはかり多くの首級を

あげたとされます。

 

その際に義光自信も戦いに参加し

上杉の銃弾を浴びるが

奇跡的に命拾いをし

現在も最上義光記念館では

被弾した義光の兜が展示され

戦いの激しさを伝えております。

 

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20190725225133j:plain

 

清源寺 

 

そして関ヶ原の後、

義光は57万石へと大加増され

長谷堂城主であった志村光安は

酒田城主に抜擢され4万石へ加増、

長谷堂城には成沢城主であった

坂光秀が入城し統治しますが

 

1622年最上家の改易によって

長谷堂城が廃城され

その歴史に幕を閉じました

 

こちらの清源寺は

志村光安の牌所になった場所で

坂光秀の墓所となっており

内陸では最大のスケールが誇る

朱塗の仁王門となっております

 

長谷堂城散策は

駐車場も完備しており

アクセスも良好ですので

長谷堂城や周辺地域の

古戦場跡の史跡散策を

ぜひお待ちしています

 

ランキングに参加しています

記事の内容がよろしければ

バナークリックをお願いします

にほんブログ村 旅行ブログ 東北旅行へ
にほんブログ

 

 

スポンサーリンク