どーもKABUOです。
羽州街道沿いに進み
尾花沢市を調査していました
前回の記事はこちらです
尾花沢市、名木沢地区の
歴史と史跡を散策しましたので
ご紹介します。
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名木沢宿と名木沢地区の歴史と史跡
明治天皇御小休所跡
前回の尾花沢市芦沢地区から
羽州街道沿いに沿って
尾花沢市上の原地区に入りますと
こちらの看板が立っております
明治天皇が東北御巡幸の際、
こちらで小休憩を取ったと
記録されております。
尾花沢市名木沢地区
上の原から名木沢地区に到着です。
羽州街道の宿場町として栄え
とくに秋田の佐竹氏、久保田藩が
特に力を入れて整備し使用された
歴史を持つ宿場町です
織部館跡
名木沢地区を治めていた
国人、国分織部氏の館跡が残っており
最上川を天然の堀に見立てた要害で
ここは織部坂とも呼ばれ
上の原から名木沢地区を結ぶ
旧羽州街道沿いだったそうです。
宿場町が整備されて以降
名木沢宿は国分織部氏の子孫が
本陣、問屋、名主、番所などの
要職を担ったとされております。
伊豆七所神社
名木沢地区の地名の
由来になったとされる神社で
少し長いですが説明します
今からおよそ千五百年前、
第十五代応神天皇の第二王子、
大山守の命が王位継承に関し
謀反を起こし追われる身となり、
北へ向かって逃れてきたが
新庄の関屋で追討使に捕われ
処刑することになった
大山守に命は覚悟なされ
「我が身を七刀に切って
都に似た土地に葬ってくれ」と
遺言を残した。
ところが、
追討使が謝って王子の身を
八つに切ってしまった。
七つの身はそれぞれ
新庄近辺に七所明神として
七ヶ所に祀られているが
残りの一片を最上川をさかのぼり
国越えをしてここ、六角壇に
投げ捨てられたとされている。
そして、一本の杉を植えて
追討使は立ち去ったと
伝えられております。
(福原ふるさと保存会引用)
遺体の一部を投げ捨てられた事から
「投げ沢」呼ばれるようになり
名木沢地区の由来の
一説となっております。
名木沢小学校跡
2014年、
尾花沢市立福原小学校と統合され
閉校された小学校です
裏手では
毎年田んぼアートが開催されており
観光で賑わいますが
今回訪れた際、稲が成長しており
綺麗に見えませんでしたので
次に訪れるときは
バッチリと撮影したいものです。
(≧Д≦)
毒沢地区と猿羽根大橋
名木沢地区を結ぶ猿羽根大橋
こちらの大橋が出来る以前は
渡し船を使って最上川を横断し
地区を行き交いしておりましたが
大正13年の冬
花嫁一行を乗せた渡し船が
転覆し花嫁を含め3人死亡する
悲惨な事故が起こりました
その後、地元住民の嘆願により
1973年に
猿羽根大橋が完成されました。
最上川
名木沢地区を少し抜けると
パーキングエリアがあるのですが
そこから見える
猿羽根大橋と最上川の風景は
とても素晴らしく
後世まで残って欲しいものです
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