KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

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尾花沢市 延沢地区の歴史と史跡 軽井沢越最上街道を行く

どーもKABUOです。

 

尾花沢市から銀山温泉を経由し

宮城県大和町吉岡地区を繋いだ

軽井沢越最上街道の調査を行いました。

 

尾花沢市中心街から

延沢、 銀山温泉、そして廃村となった

上ノ畑集落跡地を中心に調査し

何回かに分けてその内容を

ご紹介していきます

 

今回は、

尾花沢市延沢地区を中心に

延沢城や延沢観音について

ご紹介できればと思います

 

延沢地区の歴史と史跡

 

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尾花沢市延沢地区

 

最初簡単に

軽井沢越最上街道の説明をします

 

737年

出羽国雄勝の蝦夷を討った

大野東人によって開かれたと

伝えられる古い軍道が始まりとされ

 

戦国時代には延沢銀山が発見されると

銀の採掘が行われるようになります

 

17世紀後半に銀山が廃山されるが

最上舟運によって海産物や木綿等が

山形県大石田に運ばれ、荷物の運搬を

軽井沢峠を越えて仙台領へと

運ばれた歴史ある街道になります

 

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延沢古殿地区 

 

尾花沢市延沢地区は戦国武将、

延沢満重がこの地を治めており

当時の地名は野辺沢という地名でした

 

古殿という地名は満重が子の満延に

家督を明け渡した後、

この地に隠居したことから

地名の由来になったとされます

 

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常磐中学校跡地

 

延沢地区にある廃校となった

中学校跡地です

 

延沢地区は人工減少より

常磐中学校は平成27年に閉校

尾花沢中学校と統合されます

 

延沢、細野、畑沢、鶴子、六沢

地区による合併によって

常磐村が1889年に誕生し

 

その後、1954年

尾花沢町との合併し

1959年市政施行して

尾花沢市となります

 

校舎はまだ新しい見た目をしており

廃校なった事が残念です

 

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龍護寺山門

 

延沢満重が再建し、延沢氏の

菩提寺にしたとされるお寺で

山門は延沢城三の丸の大手門を

移建したものとされます。

 

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延沢観音

 

最上三十三観音22番所

延沢観音です。

龍護寺さんの寺院内にあります

 

歴史・由来

 

寛文年間、延沢に住んでいた土屋又三郎という人が、深く観音を信じ、諸国の霊場を巡礼して歩いている途中、近江の国の瓦原寺に泊まった。その夜、夢に天女が現れ「自分はここの観音であるが、お前と一緒に出羽の国に行ってとどまりたいから、明日、私を背負って出発せよ」というお告げがあった。翌朝になると、寺の住職が又三郎のところに来て「昨夜おそく、ここの観音様が枕辺に姿を現して「今夜泊まっている修行者といっしょに、出羽国の祥雲山に行きたい」といわれた。どうか、あなたが大切に持って行ってくれないか」というのである。又三郎も同じ頃に同じ夢を見た話をし、二人とも驚いてしまった。

又三郎はこれを機会に仏門に入る決心をし、山城の国、宇治の黄蘗山に足をとめ、隠元禅師について頭を丸め、尊像を棒じて故郷の延沢に帰った。彼は直ちに竜護寺の境内にお堂を建てて、観音像を安置したが、これを聞いた人々は毎日、参詣に通うことになった。貞享元年になり、竜護寺の第十一世徳眠禅師のとき改築したが、宝歴十三年第十三世梅林大和尚の代、山火事でお堂が焼けた。尊像と宝物の隠元禅師の書は無事だった。その後、直ぐに再建されたが、明治四十五年頃には各所が傷んできたものを、先代の住職が改築し、いまのところに移転したのである。尚、平成15年に新築された。

(最上三十三観音公式ホームページ引用)

 

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延沢城大手門跡

 

延沢満重と延沢氏の歴史について

言及します

 

延沢満重は1547年

延沢城、別名霧山城をこの地に

築城したと伝わっており

 

延沢銀山の銀の発掘により

巨大な財力を誇ったとされ

延沢一体を治めておりました

 

延沢満重は天童氏と北村山中心の

国人衆と共に天童八楯と言われる

同盟関係を結び度々諸国と

戦を行っておりました。

 

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常磐小学校 南舘跡地

 

1584年

最上義光と天童頼久との

天童合戦が火蓋を落とされます

 

最上義光は延沢満重の子、満延に

自分の娘を嫁がせるなどの懐柔政策を取り

延沢氏を懐柔することに成功します。

 

天童八楯の中で一番協力な延沢氏が

寝返えったことによる動揺は激しく

他の国人衆寝返りが相次ぎ

天童氏は滅亡へと追い込まれる

事となります

 

詳しくはこちらの記事になります

 

www.yamagatakabuo.online

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現在の常磐小学校に

南舘と呼ばれる舘を築いたとされ

恐らくは平時の際に使用していた

館跡だと思われます

 

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延沢城までの山道

 

延沢満延はその後、

最上四天王と呼ばれるほどの

活躍したと伝わっております

 

延沢満延には逸話が残っており

 

義光は満延が剛力であることを知ってその力を試そうとし、家中の力自慢の者7・8人を庭に集めて待ち伏せさせたが、満延は飛びかかった男どもを即座に振り払った。驚いた義光は逃げようとして太さ2尺ほどの桜の木にしがみついたが、満延はなおも義光を引っ張ったため、両者がもみ合ううちに桜の木は根から引き抜かれて、義光ごと倒れてしまったという

(Wikipedia引用)

 

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延沢城の碑

 

常磐小学校裏手にあります

古城山さん山頂にある石碑で

延沢城は古城山に築城された

山城であった事が伺えます

 

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延沢城跡のスギ

 

延沢城と共に山形県指定天然記念物に

指定されてい大スギになります。

 

その後の延沢氏ですが

三代延沢康満の時代に

最上家が改易されてしまい

康満は熊本藩加藤家に預けられる

身となります

 

山形藩には鳥居氏が入部すると

延沢城には家臣の戸田玄蕃が

城番をつとめますが

1667年

幕府の手によって破却されます

 

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延沢地区集落

 

延沢地区にはお城や

歴史あるお寺も充実しており

銀山温泉のついでにでも

是非いらしてください

 

つづく

 

 

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