KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

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会津若松市の歴史と史跡をご紹介! 蘆名氏と蒲生氏郷編

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どーもKABUOです。

 

今回は、

会津プチ旅行で見てまわった

会津若松市の観光スポットや史跡を

歴史の時系列順にご紹介します。

 

会津若松の歴史と史跡のご紹介 蘆名氏と蒲生氏郷編

 

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小山田城跡

 

戦国大名蘆名氏の歴史

 

会津地方を歴史上最初に

治めていた人物は

蘆名氏と呼ばれる人物で

 

出生は三浦半島に生まれた

佐原義連を祖としており

鎌倉幕府を開いた

源頼朝の家来であった佐原義連は

源平合戦の際に数々の武功をあげ

1191年に会津の地頭に任命され

会津地方を統治していきます。

 

その後、

2代目領主、蘆名盛連により

会津若松市にある小田山に

山城、小田山城を築き、

城下を黒川と称し、

 

黒川と呼ばれる地こそ

会津城下町の原型となっていき

当時は黒川城と呼ばれていました。

 

小田山城跡には

蘆名氏一族のお墓もあり

史跡跡が数多く残っております

 

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蘆名家花見ヶ森廟

 

その後、

蘆名氏と名前を改名し

周辺地域と福島の覇権争いを展開させ

16代目領主、蘆名盛氏の時代に

最盛期を迎え、福島の中通りまで

勢力を拡大させて奥州最大の都市として

発展させていきます

 

しかし、一族の猪苗代氏等の

家臣の統制に苦心し、後継者争いから

次第に力が衰え始め、

 

そして1589年、

伊達政宗との

猪苗代湖周辺を舞台にした

摺上原の戦いで大敗を決し

領主、蘆名義広は常陸に逃走し

戦国大名蘆名氏は滅んでしまいます。

 

蘆名家花見ヶ森廟には先程説明した

16代領主蘆名盛氏の他に

17、18代蘆名家当主の

お墓が静かに佇んでおりました。

 

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蒲生氏郷の時代

 

会津地方を制した伊達政宗でしたが

時代は豊臣秀吉の時代へと変わっており

豊臣秀吉の奥州仕置により

伊達政宗は宮城県大崎市岩出山へ移封され

会津地方に蒲生氏郷が入封します。

 

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会津若松城、西側の堀

 

会津において蒲生氏郷は

黒川城を改築し氏郷の幼名にちなみ

蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで

鶴ヶ城と名付けられます。

 

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甲賀町口門跡

 

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天寧寺町土塁跡

 

築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた[29]。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

(Wikipedia引用)

 

甲賀町口門跡や天寧町土塁跡も

蒲生氏郷時代に作られた史跡跡です。

 

その他にも会津名産品の漆器や

工芸品もこの時代に確立させ

会津若松城下町の基礎を作り出し

後の会津藩へと受け継げられました。

 

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麟閣

 

鶴ヶ城の中にある茶室です。

 

蒲生氏郷も茶を嗜んだ文化人でもあり

秀吉の命令で切腹した千利休の息子、

小庵にも類がおよび、

利休の茶道が絶えるのを惜しんだ

蒲生氏郷は小庵を会津で

かくまったとされ、

 

その時

小庵が建てた茶室がこちらの

麟閣になります。

 

その後、小庵は京に帰り

千家を復興させたと言います。

 

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興徳寺 蒲生氏郷の墓 

 

1592年

文禄の役、秀吉の朝鮮出兵の頃から

体調を悪くしてしまい

1595年死去します

 

蒲生家の家督は

息子の蒲生秀行が継ぎましたが

重臣同士の対立を招いてしまった

御家騒動を起こした結果

1598年、

蒲生氏郷が亡くなって3年後

宇都宮へと減封されてしまい、

 

その後、新潟越後を治めていた

上杉景勝が入封する事となりました

 

つづく

 

 

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