KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

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長瀞城と長瀞藩の歴史 羽州街道を行く

どーもKABUOです。

 

前回の記事はこちらになります

 

www.yamagatakabuo.online

 

今回は東根市長瀞地区の

歴史についてご紹介します。

 

長瀞地区は長瀞城を始め、

米津氏が治めた長瀞藩があった場所で

史跡が色々と残っており

見応えが結構あります。

 

長瀞城と長瀞藩の歴史

 

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長瀞地区の案内図

 

長瀞の地名の由来は

山形盆地北部のもっとも低い

湿地帯であったことが

地名の由来と言われています

 

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長瀞城趾

 

長瀞地区には本楯という地名があり

西根氏という豪族が治めており

当時は小田島庄の一部であり

長瀞城の前進は西根氏が

構築したと伝わっています。

 

小田島荘の歴史については

こちらに記載しています

 

www.yamagatakabuo.online

 

その後、小田島荘を治めていた

小田島氏が、山形に入部した

斯波氏との争いに負け

東根市一帯は斯波氏の支配下に変わります

 

恐らくですが

西根氏も小田島荘の人間だったため

この地を去ったと思われます。

 

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禅会寺

 

その後、斯波氏は最上と名前を変え

村山地域の支配を固めていき

最上家4代当主、

最上満家が家督を譲り長瀞城に隠居。

 

禅会寺を創建し

最上満家の菩提寺となります。

 

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長瀞小学校 模擬物見台

 

戦国時代に入ると

長瀞左衛門と称する物が在城し

長瀞一帯を治め、

特に文献は見当たりませんが

恐らくは最上一族の出身だと思います

 

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長源寺

 

こちらの長源寺と先程紹介した

禅会寺の寺門は長瀞城の城門から

移されたと伝わっていますが

まだ解明されていないそうです

 

長瀞左衛門の力は強大で

当時、天童地域を治めていた天童氏と

天童八楯の同盟関係を結び

北村山地域一帯を治めておりましたが

 

1584年、

最上義光と天童頼久による

天童合戦が起こると

最上義光は天童八楯に対し

調略を行い味方に引きいれていた為、

天童八楯は瓦解し天童氏は滅び

長瀞城は最上義光の手に落ちます。

 

天童合戦の模様はこちらの記事で

説明しています

 

www.yamagatakabuo.online

 

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長瀞城 二の丸の堀

 

長瀞城が本格整備されたのは

最上義光の時代だと言われており

現在でも二の丸のお堀の後が

はっきりと残っています 。

 

1622年

最上家が改易されたのち

長瀞城は廃城!。

鳥居、保科の時代を経て

幕府管轄の天領へと変わります。

 

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長瀞城 一の堀

 

長瀞地区は長い間、幕府の管轄でしたが

 

1798年

武蔵国久喜藩より

米津通政が入部して長瀞藩は

立藩されます。

 

しかし所領が1万石程度だった為

城持ち大名にはなれず

長瀞城後に、陣屋を置くだけで

あったそうです。

 

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 長瀞陣屋跡

 

米津氏の時代、

白水川の河川の整備等を行う

改革が行われ、

2代藩主、政よしの時代に

庄内藩から養子を貰い

米津政易が3代目藩主として

長瀞地域を治めます。

 

しかし

5代藩主、米津政敏の時代に

戊辰戦争が起こり

長瀞藩は戦争に巻き込まれます

 

庄内藩との結び付きが強かった為、

米津政敏と長瀞藩は庄内藩勢に

加勢します。

 

まだ奥州越列藩同盟前だった為

新政府軍側だった天童藩に攻め込まれ

長瀞陣屋を含む、長瀞地区は

戦火に見舞われ、陣屋は焼失したそうです

 

二の丸の堀は現在でも残っており

なかなか見応えがありましたので

長瀞地区に行った際には

ぜひ見学してください。

 

 

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