KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

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河北町 溝延城趾と溝延城下町の歴史 谷地街道を行く

どーもKABUOです。

 

 

谷地街道の番外編なります

前回の記事はこちらになります

 

yamagata.hatenadiary.com

 

溝延城趾と溝延城下町の歴史

 

谷地街道の調査が終わり時間があったので

河北町溝延地区も調査をおこないました

 

河北町にあります溝延地区は

寒河江大江氏の支城がありました

溝延城があった所です

 

歴史について詳しく説明出来ればと思います

 

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溝延城趾公園

 

溝延(山形県西村山郡河北町溝延)は最上川とその最大の支流である寒河江川との合流点にあり、溝が延びるような地形であることにその地名の由来があるとされる。溝延城は東を最上川、南を寒河江川で囲まれた天然の要害である。溝延城は南北朝時代寒河江城主寒河江時茂の嫡男茂信が築いたもので、寒河江城から見て寒河江川を挟んだ対岸に城を築いたのは、当時南朝側に属した寒河江氏が北朝側に属した旧領・北寒河江荘の経略を狙ったものである[1]

Wikipedia引用

 

築城の時代背景を調べてみると

当時は南北朝時代で

足利尊氏と後醍醐天皇による

北朝と南朝と別れ権力闘争を

行っている時代でもありました

 

そして

南北動乱の火種がここ山形にもおよび

寒河江大江氏は南朝派に属いました。

 

溝延城の北側を当時

小田島荘(現東根市一帯)を治めていた

南朝派の小田島氏(中条氏とも言う)

治めていましたが

 

北朝派の結城氏へと支配体制が

変わった時代でもありました。

  

なぜ小田島氏から結城氏に変わったかは

ネットで調べましたが詳細は不明ですが

 

Wikipediaでは北寒河江荘の経略を

狙ったと記載があるのでおそらくですが

結城氏は小田島荘のほかに

河北町、谷地一帯を含めた

北寒河江荘も抑えていたのだと思われます

 

そのため

北朝派の結城氏を牽制するため

初代溝延城主、大江茂信により

築城に至ったのだと思われます

 

 

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史跡 漆山古戦場 山形県大江町

 

溝延城初代城主、大江茂信はその後

山形に入部した最上家始祖である

北朝派の斯波兼頼と

1368年漆川の戦いで大敗を喫し

一族61名が自害してしまいます

 

残った寒河江大江氏含め

溝延氏の多くの一族は

所領を安堵されますが

斯波兼頼の支配下に入る事となります

 

この戦いについては寒河江市や

大江町の調査と一緒に記載したいので

また別の機会に詳しく記載します

 

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溝延城趾 本丸跡

 

『河北町の歴史』によれば、溝延城は茂信が構築した南北朝時代と比較すると、時代が下るにつれてその重要性を失っていき、庄内地方村山地方を結ぶ六十里越街道の村山側出口の要衝白岩城の重要性が高まっていった。そこで室町時代中期の溝延城4代である満教は弱体であった白岩城に入って城を強化するとともに、溝延には叔父尊広の子孝満を入れて実権を城代安孫子伊代に与えたという。

Wikipedia引用

 

時代に下るにつれ

重要性を失ってきたと

記載されていますが

 

溝延城の北側、河北町谷地方面を

支配していた白鳥氏と

良好な同盟関係をきずけた事が

重要性の低下に繋がった

大きな理由だったと考えられます

 

白岩城の強化の重要性については

 

庄内地方でおこった

大宝寺氏と砂越氏の争いが

大きな原因で

 

庄内地方と寒河江を結んだ

六十里街道の防備のによる重要性が

白岩城の強化へと繋がったと思われます

 

白岩城主の交代により

家臣である安孫子伊代に城を任され

実権を握り溝延城を統治していきます

 

寒河江大江氏の滅亡と溝延城下町

 

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溝延長老墓碑

 

天正12年(1584年)、出羽統一を図る山形城最上義光に攻められ、寒河江大江氏とともに滅亡した。家老の安孫子氏(溝延長老(こうえんちょうろう)と呼ばれる)は最上氏の詮議を逃れて慈恩寺に隠れるも、最上院で自害した。

Wikipedia引用

 

溝延城趾公園、敷地内にあります

溝延長老の墓になります

 

1584年、出羽統一を図る最上義光は

寒河江城に本拠地を置く、寒河江大江氏を

攻め滅ぼします。

 

溝延城主であった安孫子氏は

(溝延長老 こうえんちょうろう)

慈恩寺に隠れ住んでいましたが

最上義光の詮議にあい

自害させられてしまいます

 

その後、溝延城は廃城

  

しかしその後、

ここ溝延地区で異変が起こり

不作と凶作が続くようになります。

 

村人は安孫子氏の呪いと考え

1772年に慰霊の五輪塔を建立、

1879年に再建し今のお墓を建造しました

 

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溝延地区の町並み

 

神社仏閣も多く健在し

古い城下町を思わせる町並をしています。

 

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溝延八幡神社

 

南北時代に溝延城を築城した後

鎮守社として創設されたと思われます。

 

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溝延城のお堀跡 溝延八幡神社

 

溝延八幡神社参道脇を流れる水路です

 

溝延城のお堀の跡だと言われており

古い史跡が残っておりました 

 

 

 

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溝延の大樹

 

 山形県の天然記念物に指定されている

 樹齢750年以上のケヤキの木になります

 

町の歴史と共に歩んだ立派な大樹でした。

 

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・・・・・・・!?

 

調査の帰りに見つけました

溝延地区の珍スポットになります

 

「ほだいかぁほだい」って何だし!?

こんなの夜道にあったら

 

トラウマもんですよ!!

 

これでもって溝延城の紹介を

終わります。

 

 

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